週刊RO通信

「改革」も「革命」も誇大広告に過ぎる

No.1213

 官制「働き方の改革」が推進されている。働き方改革実現会議が、この3月28日に決定した実行計画は、「働く人の視点に立って」と主張するが、経営側の「働かせ方」が軸であって、働く人の「働き方」とは異なる。

 年間720時間を上限とする残業時間の許容を残業規制というのは論理矛盾でしかない。単純計算すれば週12.2時間だから、5日労働では1日当たり2時間超。1日8時間・週40時間ではなく10時間労働である。

 政財界主導でワーク・ライフ・バランスが始められた。ワークがライフを侵害するのだから、残業時間を減らして1日8時間労働に近づける努力をするのがスジだが、ワークを前提にライフの工夫をせよという文脈である。

 第一に、なぜ長時間労働になるのかを研究・検討するのが筋道である。時間ではなく成果で賃金を考えるというが、成果を出すために時間を費やしているのである。成果の出し方を研究しなければ問題解決につながらない。

 生産性向上には、経営の組織運営の改善と働く人の作業能率向上の2面がある。経営側は盛んに「雇用される能力employee-ability」を主張した。それをいうなら、経営者の「雇用する能力employ-ability」も問われている。

 1つの視点である。なぜ長時間労働から抜け出せないか? 経営者が長時間労働の理由を十分に掌握できていない。当然ながら解決策を持ち合わせない。仕事を丸投げするだけの人を経営者というだろうか?

 仕事なんてものは、その仕事ができる人にやってもらうものだ。長時間労働とは、その仕事が然るべくできない人に無理をお願いしているという理屈になる。それゆえ、成果で賃金を払っても時間短縮できるものではない。

 9月後半に開催される臨時会に提出するらしい労働基準法改正法案は、本気で長時間労働を減らそうという目的がない。その結果、法律で不埒な経営施策を追認するという批判に耐えられない。法律の価値が貶められる。

 続いて「人づくり革命」だという。いわく、教育無償化を含む教育機会の確保、社会人のリカレント、人材採用の多元化・高齢者活用、人的投資を核とした生産性向上、全世代型の社会保障への改革云々。

 これらは、常々指摘されてきたことで、改めて「人づくり」というほどの新鮮味がない。ましてや革命(revolution)などと修飾するのは、誇大広告、いや、誇大妄想というべきである。

 政府要人の議会答弁や記者会見がろくでもない。質問にきちんと答えられない。本人は、嘘をつかず、はぐらかさず、誠心誠意だという。ならば日本語がわからないのである。ために、革命など引っ張り出す始末だ。

 そもそも「人づくり」と大上段に構えるならば、まず、いかなる人間像を考えているのか明確に語らねばならない。たとえば、長時間労働にも愚痴らず不満をいわず、生産性向上一筋、艱難辛苦に耐える人なんだろうか。

 そのような人づくりは働く機械づくりだという批判に耐えられるか? はたまた「撃ちてし止まん」の産業戦士なんであろう。首相は森友幼稚園みたいな教育が好きらしいから、これ、ウガチではあるまい。

 人をつくる。人は、育とうとするし、支援して育てねばならない。個人が育つから組織が育つ、社会が育つ。人は仕事を通しておおいに成長するが、それは人の個性が主体的・自発的・自主的に発揮されるからである。

 労働にはさまざまな束縛がある。それを克服できなければ、仕事は苦役でしかない。つまり仕事において、自分の天分(genius)を自分らしく発揮するとき人は自由を感得し、ポジティブな生き方を歩むことができる。

 人間の行動(B)は、主体(P)と状況(S)の関数である。B=f(P,S)において、PがSに単に対応するのではなく、PがSに働きかける、状況を変えようとするとき、人は活動的であるし、組織もまた活気が出る。

 黒い企業が多い。これ、人が無理難題や社会的悪に抑圧されていることを示している。しかも、それをみんなで正していこうという気風が弱い。かくして、働く人は被害者のはずだが結果的には黒い企業を育ててしまう。

 個人が集まって組織を作り、社会を作っている。人づくりをいうならば、なによりも人間本位=人間の尊厳(human rights)に立たねばならない。企業も経済も技術も、はじめに人ありき、そして人のためにこそある。