週刊RO通信

チョット考えてみた

NO.1506

 生きている限り、人間がものごとを知ろうとする=認識の過程は止まらず継続する。たとえばなんらかの文章を書くとき、①情報を集める⇒②集めた情報を整理・区分・統合する⇒③文章化という過程をたどる。文章化しない場合でも、同じような活動をくり返している。

 知らない文字があれば辞書を引く。知った言葉の中身を自分なりに整理・区分し統合する。知らねばならない切羽詰まった事情があれば、余裕がないが、知らない言葉(ことがら)を認識する過程は愉快である。自分なりの知的作業である。

 1970年代に中高年問題研究で、加齢による労働生産性低下について調査した。加齢で生産性が下がるというのが一般論であるが、実はそうではなかった。単純作業の反復が継続する仕事では、加齢の関係が少し見られたが、考えて工夫するとか、熟練度を要する仕事では加齢による生産性低下は見られなかった。肉体的機能の低下が生産性低下に直結していないのである。

 すなわち、考える・工夫する・鍛えるという要素がある仕事は、人間の成長に有益である。ただし、本人がそれらの要素を嫌っていれば当然ながら生産性は低下する。つまり、加齢の責任ではなく、いわゆる本人の個性や、組織風土に大きな原因がある。

 認識するために考えることは、人間としてきわめて大切な活動である。デカルト(1596~1650)の「われ思う、ゆえにわれあり」の、われ思うは、自主的・自発的な意味を包んでいる。ユーモア居士の林語堂(1895~1976)は、これは誤植じゃないか、「われあり、ゆえにわれ思う」じゃないかとおちょくった。しかし、われありならば必ず思うのではない。学びて思わざればすなわち罔(くら)しという孔子さまの鋭い指摘もある。われ思うという活動があったからこそ、われがある。逆もまた真なりとはいかない。

 パスカル(1623~1662)の「考える葦」という言葉がある。「あなたがたは、何を見に荒野に出てきたのか。風に揺らぐ葦であるか」(マタイによる福音書第11章)から思索し、人間は葦みたいではあるが、「考える葦」だと指摘した。自分の尊厳を求めるべきは自分の思考にこそあるという。

 パスカルによれば、人間は「気まぐれ、倦怠、不安」の存在である。そして、「現在はけっしてわれわれの目的ではない。過去と現在は我々の手段であり、未来のみがわれわれの目的である」と主張する。もともと動物である人間が動物ではない人間に向かって育とうとする。――人間は自分がなろうとするものになる――というが、それは、気まぐれ・倦怠・不安のベールの外へ突き進むのであって、その核心は「考える」ことにある。

 時代が進んでいくにつれて、科学技術はどんどん進化する。科学技術の進化が人間自体を進化させるだろうか。交通手段が進化して、人間はおおいに恩恵を受けている。ただし、人間が肉体的に進化したのではなくて、むしろ退化傾向にある。人間の移動範囲はおおいに拡大したものの、人間の肉体的進化が阻害されることに着目するならバンザイ三唱ばかりしていられない。

 チャットGPTは情報量豊富である。作文能力も並みの手練れどころではない。膨大な情報を集め、収斂した成果を発揮するのだから、すごい技術である。絶対便利である。人間が駆逐される分野が多いのではないかと戦々恐々でもある。いやいや、AIは人間のようなクリエイティブな思考や判断力を持てない。人間が人間独自の特徴を生かし、AIと協力しながらやればよろしいという見解もある。

 さて、「わたし」として人間独自の特徴とはなにか! チャットGPTが悪用される危惧や、真実でないことが混じっているなどの問題があるが、なによりもの大問題は、AIの情報源である個人として、いかなる人間的見識をもっているか。いかに便利な道具であっても、単純に信用し採用するのは危険至極だという認識があるか。

 情報は他者の意見である。ウラをとるという堅実な活動を放棄できるわけがない。そのためには勉強せねばならない。そのためには健全な懐疑心をつねに確保する必要がある。そのためには考えねばならない。社会全体にドグマが蔓延しないように、「考える葦」を実践せねばならない。