論 考

桜と日本人

 わが近辺は今年の桜は終わりだ。桜の季節になると、いつも新渡戸稲造(1862~1933)『武士道』(1899)を思い出す。矢内原忠雄(1893~1961)の翻訳が素晴らしく、雄渾な文章の勢いに引き込まれた。しかし、次第に雄渾というよりも講釈師流の立て板に水が鼻につくようになった。

 新渡戸博士がベルギーのド・ラヴレー博士と散歩歓談中、「日本人は宗教なし! どうして道徳教育を授けるのですか?」と言われたエピソードは大切だ。『武士道』は、それに対する返答だという。なるほど、武士道は騎士道に通ずるところもあるし、当時の倫理道徳をなしたといわれる。ただし反論もあって、竹越与三郎(1865~1950)は、武士度はクリード(信条)にあらず、日本人のそれは義理と人情だと主張した。

 それはともかく、西洋の宗教と自分の生き方の葛藤・思索はどうも新渡戸流解釈とは違うようだ。あえて言えば、武士道は形式に人をはめ込むごとしで、生気溌剌の思索ではない。西洋流は、「人生とはなにか」「人生をいかに生きるか」の生の哲学、武士道の死の美学とは、だいぶ趣味が違う。

 西洋流はなにもかも神の言葉に従えというのだが、にもかかわらず、人々は人生を懸命に思索した。人生を考えるとなれば、神の言葉だけには収まらない。彼我の違いは、いまも色濃く残っている。日本ではどうも自分自身が、自分の人生の主人公になっていないような気がする。