論 考

検察が正義なのではない

 今朝は、袴田さんの再審決定が大きなニュースだ。

 1966年事件発生から57年、さらに死刑囚として42年の時を袴田さんは過ごす羽目になった。どうして!

 再審決定、無罪確定すれば喜ばしいには違いないが、失われたときは戻らない。なんとも形容しがたい。

 証拠捏造の可能性が指摘されている。検察は「そんなことをするはずがない」との見解だ。この姿勢が実に数多の冤罪を生んできた体質である。

 犯罪の真実を発見することと、犯人を上げることは同一ではない。それが冤罪の側面である。意図せざる失敗にせよ、無実の人を有罪にするのは許されない犯罪である。そのギリギリの認識が検察にあるのだろうか。

 もちろん、検察は犯人を上げる仕事であるが、間違えて犯人を上げるのであれば検察システムの犯罪である。いやシステムに逃げ込んではいかん。システムを形成している個人あるいはチームの犯罪である。

 個人やチームが仕事に熱心なのは上等だが、――自分たちは間違えない――などと形式的に信じ込んでしまったら決定的に危ない。

 システムは正しい。そのもとで自分たちは仕事を適切におこなう。だから間違いが発生するわけがない。これこそが、検察の犯罪の温床である。

 異なる表現をすれば、個人が人間であることを忘れ、システムの一部だと規定して行動することによって、真実を追求する目が曇る。官僚ロボットである。

 袴田事件のもう1つの重要な視点として、官僚制度のおぞましさを忘れてはならない。制度が犯罪を生むのではない。人が、制度を正しく運用しないために、制度が犯罪を生んだように見えるのだ。

 検察は正義を掲げているが、そうではない。検察は正義を達成するために尽力するのである。検察が前提として正義ではないのである。