週刊RO通信

プーチンの戦争を作った思想

NO.1495

 ウクライナ戦争は泥沼だ。戦争には終わりのルールがないという人もいるが、そうではない。ゲーム流で表現するなら戦争はデスマッチである。

 クラウゼヴィッツ(1780~1831)が『戦争論』に、戦争は政治的手段とは異なる手段をもって継続される政治に他ならないと記したが、あえて19世紀までの戦争には牧歌的色彩が残っていたと言うべきだろう。

 戦争が非人間的行為であることは今昔同じであるが、かつての戦争は人間が武器を使っていた。いまは、人間が武器を使うというよりも、武器システムの一部と化している。いわば、モノとしての武器のもとで人間が武器より低位のモノと化している。

 先の戦争で、旧日本軍においては、武器運搬の最大力であった馬を大切に扱わねばならぬから、人としての程度のよろしくない上官が、兵の補充はできるが馬の補充はできないと吠えたものだが、いまの武器は馬匹様のはるか彼方の貴重品である。人がモノ化する。いかに戦争は悲惨なことか。

 核兵器でなくとも現代の兵器は人の統御能力を超えている。人の統御能力を超えているような兵器=軍事力を、政治目的遂行のために戦略・戦術的に駆使できる政治家(軍人も)が存在するとは思いにくい。あたかも人肉食品を手掛けるようなワグネルに助っ人を頼むプーチンがその見本である。

 プーチンの戦争の思想的背景を考える。戦争目的は大ロシア復活にあるらしい。大ロシアの概念はよくわからないが、大国でございますと自他共に許す栄光が欲しい。つまり、プーチンは国家主義者であり、国粋主義者である。

 国家主義は、人間社会で国家を第一義に考え、その権威と意思に絶対の優位を認める立場であるから、必然的にプーチンは権力・権威主義者である。おそらく並外れたエリート意識を燃やしているだろうし、自分を偉大に見せようと苦心していることがよくわかる。まだ演技にボロが出ていないが。

 国粋主義を考えてみる。国の歴史・政治・文化を貫く民族性の優秀さを主張し、その長所や美質を維持・顕揚しようとする思潮(運動)である。そうでなければ大ロシアの発想は出てこない。

 プーチンに限らず、どこの国のどなたさまであっても、自分の国を誇らしく思いたいのは当然である。ノーベル賞受賞者が発表されると、頭脳、人生に対する活動力の彼我の差に愕然とするよりも、日本人はすごい、と大喜びするようなものだ。(国ではなくて個人なのだ)

 そうではあるが、じつのところ国粋は単なる思い込み、うぬぼれであることが多いし、他者の見方と必ずしも一致しない。たとえば他人の美点がよくわかるだろうか。他者の美点がよく見えるのは、自分がそれと通ずる資質を有しているとか、そうありたいと考えるからである。自分が持たない資質の他者の美点は見えない。

 勝海舟(1823~1890)は、若いとき中国へ行き、万事の大きいのに驚いた。わが日本を想うと何もかも小さくて涙がこぼれたと述懐した。単に寸法の大小ではない。勝は、大きいことの意味がわかる人であった。

 ロシアが素晴らしいと思うから大ロシアをめざす。大ロシアに夢を託すのはプーチンの勝手である。プーチンは当初、政変だらけ、汚職だらけのウクライナ政府を倒すのだから、人々が花束をもって迎えてくれると考えたらしい。うぬぼれ、思い込み、錯覚の帰結が、ウクライナ戦争の泥沼である。

 愛国者を気取り、大ロシアをめざしてウクライナに侵攻したもう1つ、プーチンが差別主義者だという事実を見落とせない。初めから、プーチンの念頭にあるのは属国としてのウクライナであり、人々の気持ちなど一顧だにしない。かりに武力で抑え込んだとして、人心がなびくわけがない。差別主義は理性ではないから、理論で説得しても解消しにくい。

 権力主義・権威主義・差別主義には通底するものがある。他国の人に対してだけではない。自国民が多数死傷してもまったく痛痒を感じないわけだ。

 勇躍壮途につくどころか、この戦争は大失敗だ。彼の思想の失敗である。超官僚のプーチンが失敗を成功と読み替えるくらいはお茶の子だろう。すべては愛国心のなせる事業である! プーチン体制は維持されるかもしれないが、それはさらなるロシア的腐敗・堕落政治と同義語になる。