週刊RO通信

核心を突く議論を期待する

NO.1494

 1月23日から通常国会が始まる。会期は6月21日までである。今回の議会では、政府与党が議会とは別の場で、暴走だといわざるを得ない決定を次々に発しているので、それらを正常軌道に戻すためには会期は短い。もちろんそれも、政府与党が真摯に聞く耳を持っているのが前提である。

 議論というものは、なにを、なんのために論ずるのかということを関係者が率直に認識して、謙虚に立ち向かわねばならない。さっこんは世界中に非民主的、強権発動型の政治が多いが、だからといってわが政治が相対的に優れていると思うなら錯覚も甚だしい。つまり、議論の土俵を共有し確立しなければ民主政治でございますとはいえない。

 とりわけ安全保障問題は、すでに土俵が共有されているかのように思う向きが多数派気分でいるらしいが、実はそうではない。土俵は、安全保障の幕が垂れていればよろしいとはいかない。垂れ幕の中身がきちんと理解されていなければ、議論の行く先は新たな問題を作り出すばかりである。

 だいたい日本人は、ものごとの総論が下手である。総論を丁寧に煮詰めないから、各論が暴走する。いまの政府与党的安全保障論は、総論がまったくない。安全保障環境が悪化しているから、軍事力を強化する。敵が攻撃してこないように、敵基地攻撃能力を作るという。単純すぎる。

 敵基地攻撃能力を持てば、相手国がひるんで攻撃を止めるだろうというのは、まったく非論理的、非実証的な物語にすぎない。敗戦前の旧帝国軍隊においては机上演習(事例研究)をよくおこなったが、手前が作った物語であって、役には立たなかった。いまはそれを政府与党がやっている。

 かりに敵基地攻撃能力を持ったとしても、他国が戦争しようとする場合、そんなことに恐れ入るような作戦を立てるわけがない。まさに、言葉の遊びでしかない次元のお話である。

 さいきん、憲法第9条を茶化すとか、役立たず扱いするのが流行っている。これは「猫に小判、日本人に第9条」というべきである。総論が不得手な日本人には高邁すぎて価値が理解できないらしい。

 なるほど憲法第9条のお札を貼っておけば敵のミサイル砲がげんなりするわけではない。軍事力による安全保障論は戦争をする決意を必要とする。一方、第9条による安全保障論は戦争をしない決意をするのであって、紙切れ頼みをするのではない。前者は、手段としての戦争に問題解決を委ねる、後者は戦争自体を否定して、戦争を手段としない問題解決を図るのである。

 第9条はまちがいなく高邁である。力ではなく、思想によって戦争をやらない。戦争をやらないことがけしからんというのは、たとえばアメリカのような戦争国家の発想である。アメリカは面白い国ではあるが、歴史を見れば、戦争を常態と考えていることがよくわかる。

 その国が日本国憲法を、第9条に代表される平和憲法を推進したのは、まあ、瓢箪から駒が出たようなものだが、歴史的には非常に価値ある事実であった。しかし、高邁な思想を育てるには、なんといっても国民諸氏がその気にならなければならない。まことに遺憾千万だが、日米ともども国民性はあまり思想性を大切にする気配がない。

 いま政府与党が推進しているのは、かつてのように侵略を目的としたものではないが、安全保障を軍事力に直結している。これは、隠しようのない軍国主義・軍事国家である。今回の議会で第一に議論してもらいたいのは、わが国を軍国主義に戻すのかという一点である。

 誇り高き政治家諸氏は、日本の日の丸を背負って、赫々たる軍事力を誇示したいのかもしれない。しかし、いまはクラウゼウィッツ(1780~1831)『戦争論』の時代ではない。彼は、「戦争は政治とは異なる手段をもって継続される政治に他ならない」と主張した。これ、いまや牧歌的戦争論である。核戦争でなくても現代兵器の優秀さ=残虐性を少し考えるだけでわかる。

 現代において、戦争は政治ではない。犯罪である。崇高なはずの国家の犯罪が戦争である。民主主義を標榜する国家は、戦争の拒否をせねばならない。世界の軍拡拒否に精出すのが第9条の日本でなければならない。安全保障と、軍事力強化は決して同義語ではない。