週刊RO通信

企業はだれのものか?

NO.1493

 1月8日の朝日新聞は、「企業と社会 多元的な資本主義への道は」と題する社説を掲げた。いつもは2本の社説が1本だ。ひさびさに社説らしい社説のように感じたので、筆者流に要約して、感想を書いてみた。

 ――企業経営にあたっては、幅広い関係者(筆者・いわゆるステークホルダー)に目を配るべきだ、という考え方が徐々に広がってきた。米国では1970年代ごろから株主の力が強まった。経済学者ミルトン・フリードマンは「企業は株主の道具」「企業の社会的責任とは利益を増やすこと」と言い切った。株主資本主義の原典ともいえる。日本では、かつて株式持ち合いや労使協調などを通じた「日本型経営」が称揚される時期もあったが、1990年代バブル崩壊後から、「稼ぐ力」、株主による「規律」を強調している。財務省統計では、2021年度に日本企業が支払った配当金は、90年代末の7倍にのぼる。従業員の給与や設備投資は、90年代半ばからほぼ横ばいだ。利益の分配のバランスが崩れている。――

 というわけで、関係者の利害の優先順位といった難題もあり、「正解」はすぐには見つからないかもしれないが、「多元的資本主義」への歩みを進めていきたい。「つまり、フリードマンを手放す時が来たのだ」(国際政治学者ジョン・ラギー)という言葉で社説は締めくくられている。

 企業は、資本・経営・労働の3つが円転滑脱に活動して成果が上がる。1970年代くらいまでは、製造業大企業の社長が「株のことはさっぱりわからん」と語っても、居合わせたものが格別眉をひそめるほどではなかった。製造業では技術畑出身の社長が普通であった。

 1973年からの石油ショックは省エネや技術革新で乗り越えた。60年代後半からの公害問題への対策もあったから、かなり各企業は苦しみながらがんばった。企業活動(経営と労働)がもっとも活力発揮した時期であった。

 その努力が実って経済大国となり、1980年代の企業活動は活況を呈した。当時、明治近代化以来の追い付き追い越せで、一応トップクラスに入ったのだが、問題はここからだ。自分の道は自分で開拓せねばならない。

 一方、追い上げられた米国や、英国病といわれていた英国は、インフレ・失業・財政危機のトリレンマ(三重苦)であり、ケインズ経済学を批判したフリードマン(1912~2006)がリーダーシップを取った。政府の重荷を取り除いて、チープガバメント(安上りの政府)とし、企業の経済的活動の自由をできるだけ拡大しようとする。いわゆる新自由主義である。

 新自由主義といえば、なにか新しい資本主義みたいに思えるが、実はちっとも新しくはない。的確に表現すれば、資本主義の創生期へ、活力はあるが粗暴な資本主義への復古調であった。資本主義の生命は利潤を増やすことである。利潤増大を柱として運営すれば経済は活発化する。

 資本主義はpressure to sell(売らねばならぬ)のである。利益至上主義の旗を掲げ、金融の商品化が加速した。ところで異常と思えるような金融資本主義の発達は果たして本当の進歩なのか、どうか。2008年の米国発金融バブルの崩壊は、100年に1度と形容されたが、天変地異ではない。儲け主義に走った人間の行為にすぎない。

 ソーンステイン・ヴェブレン(1857~1929)は20世紀初頭に、「資本主義は儲け主義で金融化するから、金融的詐術の名人に委ねられるようになる」と警告的予言を発した。それを証明するかのように、スーザン・ストレンジ(1923~1998)は1986年に、『カジノ資本主義』を発表した。金融カジノの元締めが大銀行と大ブローカーだ。銀行員は、国際金融システムを賭博場と非常に似たものにしてしまった。彼女のさらなる警告は「自由な民主社会が最終的に依拠している倫理的価値への尊敬が揺らぐ」というものだ。

 安倍氏は、日銀は政府の子会社だからいくら国債を発行しても大丈夫と、全国行脚してしゃべった。米国は、国際収支の赤字が、貿易相手国によるドル保有の増大によって帳尻合わせされる。つまり、ドル準備は無限である。それに比較すれば、安倍的妄想はかわいらしいものかもしれないが——

 多元的資本主義なる言葉がよくわからない。本当の問題設定は、利潤第一の資本主義が、人間を疎外しない存在になるという視点ではなかろうか。