論 考

現実はドラマではない

 戦時下のクリスマスは、いろんな映画で印象的シーンを描き出した。ロマンスの主人公に肩入れしつつ画面を見る観客は、2人の仲を割く戦争の非人間性に涙するのだが、時間が過ぎてから考えると、悲恋物語に酔っていただけじゃないかと腹立たしくなったりする。

 昨日、ゼレンスキー氏が人々に呼びかけたクリスマス演説の報道を見ると、チラッといろんな映画のシーンを思い浮かべたが、すぐに消えた。

 聖夜に戦争の大義を再確認するのは、辛いことだ。自由は高い代償をともなうことを銘記し、忍耐と信念を持とうと語ったが、圧倒的な現実を前にして語るのは月並みな平常心という言葉では表せない。

 プーチンもまた、国内向けテレビで、(自分たちは)交渉する用意があるが、拒んでいるのは彼らだ、と語った。自家撞着の見本である。

 戦争を始めるのは容易だが、始めてしまえば、憎悪と破壊・殺戮の巨大な奔流となって、自分では止められない。止めてくれという本音が見える。

 実は、停戦協議がなくてもウクライナ戦争は止められる。プーチンが軍隊を引き揚げればお終いだ。それは、自分の作戦の失敗であり、敗北でしかないから、動けないと思い込んでいるだろう。

 戦争をする覚悟と決意があれば、戦争しないという覚悟と決意もある。

 わが国では、ふわふわと抑止力に幻想を抱いている。ただし、戦争をする覚悟と決意も、あるいは戦争をしない覚悟と決意も、いずれも意識されていないのではないか。

 他国の人々が、高い志に向かって犠牲を顧みず闘う姿は英雄的であると思う。しかし、それを英雄的だと思う気持ちと、自分自身のあり方はまったく無関係である。本気で考えるかどうか。