週刊RO通信

感性と実体の異様な結合

NO.1485

 ケンタッキー・フライドチキンが11月9日、ドイツ向けに「水晶の夜記念――ソフトチーズとクリスピーチキンを自分へのごほうびに」という宣伝を流した。1時間後に、システムのミスだとして撤回・謝罪した。筆者は水晶の夜を知らなかった。これが、まことにおぞましい。

 1938年11月9日夜から10日未明にかけて、ドイツでナチのSA(準軍事組織)が、ユダヤ人を迫害した。ユダヤ教会堂シナゴーグなど267、ユダヤ人商店7500以上が破壊され、その後被害者ユダヤ人3万人が逮捕され収容所へ送られた。ユダヤ人迫害開始の重要な出来事とされる。

 なにも知らずに水晶の夜と聞けば、ロマンチックである。破壊された商店などの膨大なガラスが月明かりに照らされて、キラキラ輝いていたことから名付けたそうだが、なんともはや、現代の広告代理店も真っ青の卓抜した! ネーミングである。美的感性もまた悪意を飾る手段になる。

 迫害・破壊を横へ置いて、月明かりに輝くガラスを見れば、そのような感興が起こる天才もいるのだろうが、非人間的な悪意を水晶に置き換えるなど、とても平凡人には理解しがたい。水晶は塵を受けずといえば、清廉潔白な人が不義・不正を憎むたとえである。

 もちろん、ナチの悪行を全面的に否定した今では、水晶の夜(Kristallnacht)は使われず、11月ポグロム(Novemberpogrome 集団的破壊行為)と呼ぶそうだ。

 筆者はパリパリしたフライドチキンを格別食べたいとも思わないが、ケンタッキー・フライドチキンのシステムミス(人間の早とちりだと思う)をあげつらうつもりは一切ない。元はと言えば、実体とまったく似つかわしくないネーミングをした感性に問題がある。なにも知らぬ人は、ロマンチックな感性で受け止めても不思議ではない。

 人間が言葉を使ってコミュニケーションできるのは本当に素晴らしい。言葉が、意思やものごとの実体を伝えることができるから、こんにちのような世界文化を築いてきた。だから、言葉を的確に使って、実体を正しく表現するのは、至極当然の心構えだろう。

 言葉の持つ力を使って、人々の感性に働きかける。しかし、ちょっと考えてみると、意図せざる言葉の誤用があるし、悪用が後を絶たない。宗教改革で有名なルター(1483~1546)は、「神の兵士としてのキリスト教徒」を打ち出した。政治的な宗教改革運動を推進するための兵士(殺戮と破壊をする)と、神を結び付けた。素直に福音を考えれば、神が人々に武器を持たせて、神の名によって同胞同士が迫害しあい、果ては殺戮をするべしなどと書いていない。16世紀は血まみれの宗教戦争が続いた。ルターの悪用だ。

 敬虔な祈りを捧げて、神の教えを考える。それは、なにもしない奴だと罵られる。一方、では、行動する信者はなにをしたか。福音を破壊する行為を繰り返す。しかも、それが神の意思だと思い込んでいる。どう考えても、なにもしないほうが人間として上等なあり方に見える。

 水晶のように美的ではないが、わが国には一億玉砕という言葉が流行った。始めた戦争の着地点が見いだせない。もはや勝利など論外であることがわかっても、指導者面した人々は誰も積極的に動かない。まあ、あんたもおれも、皆揃って蒸発するのだから恨みっこなしよという合意だったか。

 これはヤケクソである。たまたま玉砕という言葉にしびれる人がいたとすれば、耽美主義というよりも、マゾヒズムのほうがぴったりする。玉砕するために戦争を始めたのではない。活路が玉砕しかない事態に至ったのであれば、玉砕をなんとしても食い止めるのが理性的選択である。

 ウクライナの人々は民主主義を守るために一歩も引かないという。なるほど、民主主義を守るという言葉は崇高である。しかし、さらに戦争が長期化すれば、21世紀の一億玉砕論に通ずることを見落とせない。

 ところでわが国の民主主義事情を考えるとき、みなさまは、自分が民主主義のために命を捨てられるとは思われるだろうか。戦争の核心は、憎しみであり、やられたからやり返すということだ。薄っぺらの安全保障論議の前に、人類が存続するために本気で考えねばならないことがあるはずだ。