週刊RO通信

読書週間の意義

NO.1483

 10月27日から2週間の読書週間が始まった。併せて、出版社・書店が秋の読書推進月間を開始した。読書週間の標語は「この一冊に、ありがとう」というらしい。同日の社説で、読売は「秋の読書月間 心の糧になる1冊との出会い」、毎日は「きょうから読書週間 見つけたい心に響く一冊」と、読書の意義を押し出している。まあ、しかし、お付き合い記事みたいだ。

 読書習慣のある人にすれば週間だろうが月間だろうが格別の刺激はない。ならば社説は、第一に読書習慣のない方々に呼びかけるのが目的だろうが、読書の魅力に気づかせるでなし、読書は大事だと覚醒させるのでもなし、なにか寂しい心地がするので、自分はどうなのかと考えてみた。

 「この一冊に、ありがとう」という本があるのか。それなりに読書する生活をしてきたが、なるほど、ありがとうと言うべき本は数えきれないけれども、この一冊と畳み込まれるとそうはいかない。これは、並みの読書人ではなく、膨大な読書をこなした暁に到達する達人的心境ではなかろうか。「心の糧」にせよ、「心に響く」にせよ、似たようなもので、ゴルフを始める前からシングルプレーヤーを目指せというのと変わらない。

 古代ギリシャ・アテネには紀元前4世紀に本屋があったそうだ。文字と無縁の人が90%の中世に出版業は修道院・教会であった。14世紀はパリ大学が出版の中心、15世紀半ばグーテンベルク(1400~1468)の活版印刷が始まってからも書物は少数の人々のものであった。ウェルズ(1866~1946)は、「15世紀とともに欧州文学の真の歴史が始まった」と指摘した。

 思うに、人々が本の価値を注目したはしりはルネサンスに始まるのであろう。ルネサンスを表象する技術は、羅針儀・望遠鏡・火薬・活版印刷であった。14世紀に開始したルネサンスの大きな特徴は、「はじめに言葉ありき」で全面的に支配していた教会思想・教義に対する懐疑的精神の発現である。

 伝統的文化の全域にわたってイタリア的精神の更新が始められ、全欧州に拡大していった。いわく、精神生活の深化・新興である。個人を解放し、人格や感情への覚醒が盛んになり、世界の終末ではなく現世を肯定し、自然と経験への関心がおおいに進んだ。一言で表現すれば、人間を完成させていくという強烈な精神的志向性であったと思われる。

 人々は人生に気づいた。ドイツの騎士で人文主義者であったフッテン(1488~1523)が、「おお、世紀よ、おお、知識よ」と、生きることは歓喜であることを語った。モンテーニュ(1533~1592)が、「人間にとって最大の意義は、彼が彼自身であることを知ることである」と記したのは有名な話だが、これはルネサンスの根源的精神を示すように思われる。

 本が、人々の精神的渇きを満たす命の水であったルネサンス時代は、読書熱がもっとも沸騰したであろう。わが国には、そのような歴史的水脈はない。とはいえ、明治時代、大正時代、そして戦時下ほど本が渇望された時代はないという識者の証言もある。妙な表現になるが、頭が空腹的事態=飢えて、本を求めるのであって、頭が満腹状態であれば、いかに出版物が多かろうと、本が読まれることにはならないだろう。

 カーライル(1795~1881)は、「書物がある。ただ読むだけの本がある」と風刺した。なるほど、ただ飲んで酔っ払うだけの酒にしても、ただ読むだけの本にしても客観的には時間と労力の無駄だと思えてくる。

 知識を得るために読むという考え方もある。日々忙しい、要領のよろしい人はあちらこちらにてんこ盛りの、どなたかの読書評論を片っ端から読んで、記憶する。よほどの読書人とでもないかぎり、話材には事欠かない。そればかりか、あいつはたいした読書家だと他人の舌を巻かせることもできる。話材としての知識程度ならば読書に頼らなくてもいくらでも手段がある。スマホをひょいちょいと操作すればたいがいの問題は片付けられる。これならば手間も面倒もあまりない。電車に乗ると8割くらいの人がスマホを見ている。

 心に響く、心の糧になる本の意義はなにか。並んでいる本に意義が隠れているのではないだろう。本を読むことは、どうやら、パスカル(1623~1662)の名言「考える葦」たるか否か。ぐるぐる回って、この辺りに読書の意義に至るエネルギーが潜んでいるように思えてきた。