週刊RO通信

作られる危機に対する健全な精神を

NO.1477

 自分が認識できる世間の様相は、小さな限定された範囲でしかない。重々わかっている。まして精神について一文を呈するなどは分不相応だとも思う。しかし、さっこんの情報に接していると、出口がないというか、進むべき道筋を間違えているとしか思えないので、あえて、問題を提起したい。

 非常に気になるのは、さまざまな分野で分断と対立が前提され、事実が確認されていない危機を煽る論調が多い。それはまた、対象を善悪真っ二つに置いて見ている。正義は勝たねばならず、邪悪は排斥されるべきであるから、自分にとって不都合な対象を叩くのは小気味よろしい。しかも自分が直接矢面に立っていないのだから、なおさら意気上がる。

 しかし、世界を二分して、分断と対立を煽るごときは正常な社会通念ではない。もっとも気がかりは、アメリカを軸とした陣営の中国叩きである。叩かれて気分がよいのは倒錯した心理状態である。当然ながら叩かれたほうは昂然と受けて立つ。その行方は抜き差しならない対決でしかなかろう。

 危機を煽る流れにおいて、防衛費のGDP2%実現を目論む人々にとっては、大いなる追い風で、反撃能力論が大きな顔をする。しかし、少し考えればわかるが、周囲を海に囲まれた日本は、閉鎖されたのと同じであり、ドンパチが始まれば、逃げ出せる安全な場所はない。武器依存論は幻想だ。

 高価な飛び道具を大盤振る舞いして購入したとしても、とてもじゃないが守れないのは火を見るよりも明らかである。平和構築や安全保障の戦略的意味が、軍事的防衛という戦術段階に落ちている。とりわけ防衛論議を振り回す人々において、戦略論議はまったくなされていない。

 そのすべては日米同盟に帰する。まるで日米同盟は、万能無双の怪力みたいである。いかに同盟といえども、日米一心同体ではない。ウクライナをNATOに加盟させるとしてその気にさせたアメリカが、自分が軍事介入すれば世界大戦の危惧があるとして動かない。ウクライナ並みにじゃんじゃん武器をちょうだいできるから安心だと思うのだろうか。

 いま、ウクライナ戦争は膠着状態で、ウクライナの反攻に注目が集まる。なるほど武力があり、武器を使う人がいる限り戦争は継続できるが、戦争の主人公は武器=モノであって、兵士もまたモノと等しい。人間ではない。どこまでも戦争を続けるならば、やがて訪れるのは墓場の平和でしかない。

 ウクライナの惨状が報道されても、なんら気持ちが動揺しないのは豪胆というべきかもしれないが、実は、日本人にとっては所詮絵空事ではないのだろうか。本気で戦争の実態を考えれば、正義の戦争と吠えたところで、現実の人の命にはなんの役にも立たないことが分りそうなものだ。

 単純化すれば、なるほど軍事力はいささか強化できるだろう。ただし、この狭い国土において、戦争の惨禍から逃れられるすべはない。反戦平和を主張する人は夢想に生きていると批判されるが、軍事力強化で安全が守られると主張する人も、実は本当に戦争が起こって巻き込まれると考えていないのだろう。まして、いかに政治家がアメリカを奉ったとしても、日本人の痛みが米国人の痛みと同じにはならない。同盟の虚構性を忘れてはならない。

 日本の国力はどんどん落ちている。安全保障の根幹は、その国の社会・経済・政治が安定しているのであり、人々が、日々の暮らしを堅実に送っていることである。かつて経済大国という言葉の実態を人々はかたじけなくも味わっただろうか。おおかたは、「なんや、こんなものか」と呟いたものだ。それすらもいまは昔、借金だらけで経済大国の影も形もない。

 とつおいつ歴史を辿っていると、「水は低きに流れる」という言葉の真実味を感じずにはいられない。サルから人になったらしいが、人になっても動物である。動物の性向は停滞・無為不作為の活動がベースである。いまの日本的精神が低きに流れていると思うのは、杞憂だろうか。

 歴史を作ってきたのは人自身であり、人生は運動そのものであり、歴史もまた人々の運動である。知的怠惰にどっぷり漬かって、内外の動向をスマホで眺めているような心境にありはしまいか。政治家は反省をしない見本として見られている。ただし、それが政治家だけだと断言できる自信が筆者にはまったくない。精神活動の健全かつ活発なることを期待するのみである。