論 考

誰のために鐘が鳴る

 安倍氏国葬まで1か月になった。

 岸田氏は、保守層の突き上げが強かったので、法的解釈はいかにも官僚の考えそうな内容で、安倍氏の国葬を早々表明した。拙速、未熟慮の見本である。

 寄木細工の理屈以上に、国葬というならば議会審議が不可欠だ。これを全面的に無視して、いわゆる内閣の裁量範囲という解釈で進んだ。

 銃撃事件の衝撃で、人々の情動が大きく作用すると読んだだろう。時間が経過するにつれて、安倍氏、並びに自民党議員の旧統一教会との腐れ縁が暴露され、国葬反対が賛成を大きく上回った。

 いったい、長く政権の座にあったことが国葬の理由になるか。岸田氏も、それだけでは無理だと思うから、安倍政治の評価はやりたくない、やらない、やれない。その不見識は、結局自分にはね返る。

 国葬といえども、格別人々に服喪の強制はしないとコメントした。

 つまり、お体裁は国葬だが、儀式としての格が国葬であって、国民挙って弔意を表明するものではないという、わけのわからぬ袋小路にはまった。

 もともと、岸田氏は他者に対して聞く耳を持っているのがセールスポイントだった。そうであれば、やはり議会を開いて堂々たる意見交換をやればよろしい。うやむやで進んだ結果、それほどの強い意思も度胸も持ち合わせないことが、さらに露呈した。

 なにを、なんのために、いかにしておこなうか――これは、大きなことでも小さなことでも、なにごとかをおこなう場合の段取りの規範、鉄則だ。

 国葬も葬儀の1つである。葬儀は葬儀屋チームとしての官僚機構が万全の対策を講ずるだろう。しかし、政治家の仕事は儀式をとどこおりなくおこなうことではない。

 すべての政治的行動に対する段取りを怠りなくなさねばならない。たかが、儀式であっても、政治的段取りを無視して行動するごときは政治家にあらず。まして、内閣総理大臣の器にあらず。

 国葬が岸田政権への弔鐘になるかもしれず。