論 考

なんのために戦っているのかわからない

 NHK記者が、ウクライナの捕虜収容所に入り、ウクライナの捕虜になったロシアの戦闘員を取材した。

 詳しい内容ではないが、29歳の戦闘員は、「なんのために戦っているのかわからない」と語った。これは、自分を見つめれば、すべての戦争に参加した兵士が共有する言葉であろう。

 戦争をするのは国家(を代表する権力者)である。ただし、彼らが直接戦闘することはまずない。彼らはその戦争の頭である。兵士が具体的に戦争するのだが、こちらは手足である。

 頭が命令し、手足が忠実に従って戦争する。そうでなければ戦争にはならない。

 戦争の大義について、プーチンの大義とゼレンスキーの大義を比べると、常識的にはゼレンスキーの大義が圧倒している。

 ただし、それは前提が異なる。プーチンは徹底した国家主義、ゼレンスキーは民主主義を前提とする。

 安全地帯から見ているわれわれは、ゼレンスキー的大義を称揚する。しかし、少し考えれば、ウクライナだけに大義たる民主主義を軍事力によって守らせることが可能だろうか。

 ウクライナの兵士たちが、「なんのために戦っているのかわからない」と思ってもなんら不思議ではない。

 いざ戦争になれば、国家主義も民主主義も、兵士は頭ではなく手足である。