論 考

核兵器は自殺手段である

 ロシアのウクライナ侵略半年だ。まさに膠着状態だが嫌な感じだ。大国が介入の動きを見せないのが1つ。ロシアが比較的静かなこと、ウクライナの反撃は予定されているようだが、水面下の動きはわからない。

 プーチンが核兵器使用もありうるとしたのはもちろん脅しだ。核の脅しは許されないと新聞は書くが、他国が許さないと合唱しても、それは核兵器不使用の保証にはならない。

 プーチン発言によって、彼がいかなる種類の人格にせよ、やろうと決めればやるということだ。

 つまり、一貫して当然のように言われてきた核抑止論の欺瞞性が崩壊した。核の使用がいちばんありうるのは、プーチンが絶体絶命に追い込まれたときである。トランプの場合は、周辺が核のボタン管理に動いたというような話が漏れ聞こえたが、プーチンの場合はたぶんそれもなかろう。

 わが国では、核の傘に入っていることが最大の安心だとする人々が多いが、ここは、じっくりお考えいただきたい。

 前述のプーチンの核使用のケースは、いわばプーチンの自殺である。核の傘に入っていても、道連れ自殺的行為を図ったならば、他国は確実に巻き添えを食う。

 つまり、核の傘の本質は、安全保障ではなく、巨大な自殺手段である。

 わが国における核の傘論は、被爆体験からして、屈折した心理状態としか考えられない。まずは、理性の復活を期待する。