論 考

政治家の倫理観を考える

 政治家に倫理を問うのは政治を知らない者の考え方だという。

 その理屈がなぜ成立するのか。敷衍すると、国家が倫理を問われないことになる。なるほど、プーチンの戦争を見ればその通りである。

 しかし、他の多くの国々がプーチンを悪とし、民主主義を正義として、ウクライナを応援する。ここでは、プーチンを悪とする側は政治を知らないことになる。

 正義の本尊、アメリカでは、リズ・チェイニー氏がトランプ氏の嘘を排撃して共和党内で孤軍奮戦している。

 これも、倫理を問わず論からすれば、チェイニー氏はドン・キホーテ的に戦っていることになる。

 トランプ教の諸君は、一言でいえば、いままでの政治が大嘘の政治であったから、トランプ的嘘をぶつけるのは対抗上正当だというにある。

 なるほど、国際的には、いまはロシア無法者論一色だが、世界の秩序維持の大義名分を掲げて、アメリカが世界中で展開した戦争は、正義の戦争というには非常に苦しい。

 目下は、世界中が大混乱だ。なにをもって秩序作りの根本とするか。それがまったくカオス状態である。

 そこで、明確なことは、軍事力で有無を言わさず片付けるという論法が台頭するのだが、ウクライナ戦争を見てもわかるのは、戦争は100m競争のように、力のある者が勝利して決着するというように簡単ではない。

 戦争している国のいずれもギブアップしなければ、軍事力を行使できなくなるまでやるしかない。出口なしだ。

 バカバカしい、お話にならない。政治家の倫理観を大目に見てはならない。