週刊RO通信

想定外!の最高裁判決

NO.1464

 6月17日、2011年の東京電力福島第1原発事故被害者3700人が国に損害賠償を求めた集団訴訟で、最高裁第2小法廷(菅野博之裁判長)が最高裁として初の判決を出した。国の賠償責任を認めないという結論である。

 判決は、①福島原発事故以前の津波対策は防潮堤設置が基本で、②国の地震予測・長期評価に基づく東電の津波予測には合理性があった。③しかし、実際の地震・津波は長期評価に基づく想定よりはるかに大規模で、④ゆえに国が防潮堤を東電に設置させても事故は避けられなかった。煎じ詰めれば、津波「想定外」(天災)論である。非科学的・非論理的に感じる。

 2012年7月に発表された東京電力原子力発電所事故調査委員会(黒川清委員長 略称国会事故調)報告では、「福島原子力発電所事故は終わっていない」という印象に残る記述があった。国会事故調は、「想定外とは、考えられなかったことだから、運が悪かったとか、不可抗力だったという意味ではない。原発の仕様決定から運用、事故対処の一連の流れにおいて、科学・技術上の欠落・欠陥があった。」と位置付けた。想定外=人災論である。

 想定外の地震・津波が原発事故の原因ではない。地震・津波を想定しなかったことが原因である。科学的知見のレベルが低く、技術のレベルが低かった。事故後のさまざまな対応においても、相変わらずレベルの低いことが現実に露呈している。いまだ福島県民3万人が避難している。補償問題で訴訟を起こさねばならない事態も然りである。事故は終わっていないという認識を大切に思う立場からして、最高裁判決は想定外である。

 国会事故調は、「東電はエネルギー政策、原子力規制に強い影響力を行使しつつ矢面に立たず、役所に責任転嫁する経営、情報格差を武器に、電気事業連合会など介して規制骨抜き、シビアアクシデントのリスクではなく、経営リスクで行動していた」。そして、「原子力安全について監視・監督機能が崩壊していた。事前に対策を講ずる機会があったが、それをなさなかったのだから人災である。」と指摘した。監視・監督機能は国である。国の責任には十分過ぎる理由がある。この構造的問題も、判決はなぜかパスした。

 判決では、防潮堤を設置していても、津波を防げなかったとするが、これもおおいに違和感がある。防潮堤のありやなしやではない。事故の直接原因は非常用電源を喪失したことにある。そのため、原子炉の冷却が不可能になり、炉心溶融や、水素爆発が発生し、放射性物質が大量に飛散した。もし、非常用電源が力を発揮してくれていたらと、いまでも思う。

 2012年6月に東京電力自身による福島原子力事故調査報告書が出された。これに対して、新聞は「自己弁護と責任転嫁だ」として手厳しい批判を書いたが、大事な客観的事実が書かれている。「技術面では非常用電源の配置が、冠水・浸水・水没というような事態を想定していなかった。原子炉自体は、もし、電源が確保されていたならば『止める・冷やす・閉じ込める』ことが可能であった」。まさにこの通り。判決の重大な欠陥だ。

 非常用電源が原子力発電施設のもっとも低いところに配置されていた。海辺の直近である。どうして非常用電源が高い所に配置されなかったのか、水密化を確実にしなかったのか。素人でも不思議に思う。原発の仕様決定時点から基本的に設計ミスを冒している。直近の問題ではない。38年間、どなたも危険な事情に気づかなかった? こんなものを許可(放置)していた。原子力委員会、安全委員会、保安院(当時)のチェック機能も働かなかった。国の責任は、逆立ちでもしないかぎり絶対にある。

 判決は、天災想定外で国の免責をした。裁判官の眼はまさか節穴ではあるまい。原告が「無責任な判決」だと憤るのは当たり前だ。唯一の救いは、三浦守裁判官が1人、反対意見において、「水密化は十分可能である。国や東電が真摯に対処していれば事故を回避できた可能性が高い。東電を容認した国に責任あり」としたことだ。反対意見こそ正しい判決である。

 原発事故から、たった11年経過しただけで、最高裁の裁判官が当時の事故調査委員会報告書すら読んでいないような判決を出す。読んだ結果としてならば、非科学的思考の産物に感じる。ところで、国は反省したのだろうか。またまた、危ない船に乗っている心地がしてならない。