週刊RO通信

サルから人へ、人からサルへ!

NO.1462 

 人類学者今西錦司氏(1902~1992)は、カゲロウの生態を探るために、10年間、川原の石を引っくり返して歩き回った。都井岬の野生の馬を観察し、青島のサルを観察し、高崎山のサルを観察する。個体に名前をつけ、眼光紙背を拝借するなら、眼光猿心に徹すという精神、勢い、馬力で研究した。さいきん学問業界では、さほど高評価でないらしいが、今西氏は霊長類研究のフロントランナーとしての学問的実績を残した人である。

 今西氏は、「ボスザルはぼんくらでは絶対にできない仕事だ」と断言した。ぼんくらでないボスザルとは、大群のリーダーになるサルで、「腕力・知性・徳が抜群」だという。腕力はともかく、知性さらに徳と踏み込まれると、いささか心穏やかではない。人間社会をどうしても考えてしまう。腕力も知性も徳もいかにも薄っぺらいのが、大群を率いているみたいで。

 なぜ薄っぺらいのが大群を率いられるのか。思うに、サルは生身の個体自身の力であるが、人間は腕力も知性もサポートする仕掛けがある。腕力の頂点には軍事力がある。知識は、官僚機構があるし、AIという絶妙に便利な道具がある。ひとたび権力を手にすれば怖れるものはなにもない。そこへ到達するために腕力・知性・徳がいかに発揮されたのか。非常に興味深いが、格別に優れていたとか、艱難辛苦を克服したとか、ましてや徳があるなどとても感じられないから奇妙な心地になる。

 まあ、ボスたる位置にいる人と懇意でもなく、今西グループの面々のように個体識別に汗をかいたわけでもない。ボス人間たる諸氏の腕力・知性・徳が、縁なき衆生には見えないだけだと考えるしかない。しかし、見えない腕力・知性・徳が隠されているとしても、それにしては、さいきん、内外の騒動に対する手際は、ボスザル並みなんだろうか。

 プーチンを偉大なボス人間だと評価する人は少なく、とんでもない輩だと批判する人が圧倒的に多い。しかし、批判する側の頂点付近に存在するプーチン以外のボス人間の腕力・知性・徳が際立っているともいえない。とんでもない騒動を引き起こしたボス人間に対して、それを制止できず、果ては、結局けしからん輩と同じ価値観・手段にのめり込んでいる。

 さて、ボス人間に率いられた世界とはどんなものか。今西氏は、「人間は数千年前に、自然からの独立に成功して、古代文明をうちたてとき、人間として可能な社会をすでに打ち出していた。革命をなんどやっても、いつもこの型からぬけられていないし、新しいものをつくったと思っても、それはすでにあった型のイミテーションかヴァリエーションにすぎなかった——」。

 今西氏によれば、古代文明社会の成立をもって、ほぼ人間社会が完成したようなものだという。なるほど、プーチンの蛮行を口をきわめて罵ってもきたが、今西説が真実であれば、21世紀でございますというものの、むしろプーチンが人間社会のあり様を熟知したうえで、当たり前の「活動」の1つを展開したという理屈になる。

 それを与件として、ただいまは世界各国、わが日本においても軍事力拡大論議が勢いを増している。ここで憲法論議は横へ置く。現状の世界的軍事力拡大論議に焦点を合わせて少し想像してみたい。すなわち、世界平和なる概念はどうなるか。自分から破壊する行動はやらぬとしても、やられたらやり返す。ただいま、ウクライナの人々が実践している通りである。

 やればやり返される。仕掛ける側が戦争をやったら、やり返されてコテンパンになると考えないかぎり、やれば勝てると考えるのであれば、守る側が軍事費を拡大してもやられるリスクは解消しない。大日本がGDPの2%を軍事費に回したところで、同じことである。安心はできない。

 各国は軍事力という、いわば牙を大きくして磨くが、その作業には上限がない。相手の牙が恐ければ、座して待つより、防衛のための先制という理屈も登場する。軍事力を前提すればいずれの国にも平和の安心には手が届かない。そして、いつの日か大戦争が発生すると考えざるを得ない。大戦争の暁には、サルの世界へ逆戻りだ。『猿の惑星』(1968)という映画もあった。

 軍事力拡大しか能がないのは、人間社会の進歩ではない。ボスザルにも及ばぬボス人間にお任せする世界とは、所詮こんなものでしかない。