週刊RO通信

隠す体質は防衛省だけではない?

No.1209

 どなたさまもご存知のように、敗戦までの大日本帝国憲法は、天皇が人々に下しおかれ、人々はかたじけなくもかしこくも臣民にされた。臣民の立場を示す内容は、軍人勅諭(1882)と教育勅語(1890)に代表されている。

 鎌倉幕府以来ざっと700年にわたった幕府政治の本質は、「戒厳令」下そのものであった。明治政府になっても、その本質はほとんど変わらず、いや、むしろ一層強化されたというべきであろう。

 軍人勅諭の有名な一節――兵力の消長は是国運の盛衰なることを弁え世論に惑わず政治に拘らず只々一途に己が本分の忠節を守り義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ。――軍人の命は「鳥の羽」より軽い。

 教育勅語はやや抽象的だが――国憲を重んじ国法に遵い一旦緩急あれば義勇公に奉じ以て天壤無窮の皇運を扶翼すべし。――こちらは実は「鳥の羽」よりもさらに軽かった。臣民の中では軍人さんが最上位扱いだからである。

 「朕はなんじら軍人の大元帥なるぞ」。天皇の大権(機能)は、国務大権と統帥大権にある。国務大権は、政府が天皇を輔弼(助言)する。統帥大権は、天皇自ら行使することになっていた。軍は天皇のもので国民のではない。

 統帥大権は、制服組の陸軍・参謀総長と海軍・軍令部部長が助言した。こちらは政府から独立し、議会のコントロールを受けず、つまり統帥大権のオールマイティによって、軍部はなにごとも随意にやり抜いたのである。

 政友会議員の浜田国松(1868~1939)が、1937年1月21日の議会で、軍部の政治関与を批判した。陸相・寺内寿一(1879~1946)が、軍を侮辱したと非難した。浜田は「侮辱などしていない。具体的に示せ」と反論し、「証拠があれば僕は割腹する。なければ君が割腹せよ」と猛反撃した。

 収まらない寺内は、陸軍をバックに議会を「懲罰解散」せよと閣議でごねまくった。閣内不一致で広田弘毅内閣は総辞職するしかなかった。

 38年3月24日には、陸軍の強烈な後押しで、国家総力戦争を企図した国家総動員法(同4.1公布)の審議があった。説明員、1軍官僚に過ぎない佐藤賢了中佐が、反対の野次に怒って檀上から「黙れ!」と吠えた。

 民政党議員の斎藤隆夫(1870~1949)が、法案の違憲性について痛烈反論を加えたが、すでに議会は骨抜きだ。31年の満州事変開始以来、軍部が日本の政治を好き放題に掻き回し、引きずり回していた結末である。

 45年8月、満州事変から15年続いた戦争に全面的敗北・降参して日本は出直す。46年2月13日、(日本国憲法)マッカーサー草案が示された。当時の議員がいちばん驚いたのは「主権在民」であった。

 憲法第9条はほとんど話題にもならなかった。すでに、軍隊は解体されて存在せず。誰もが戦争にこりごりだ。いうならば、戦争放棄・軍備不保持は前提であり、なおかつ当時の国民全般が望むところであった。

 50年、朝鮮戦争が勃発し、マッカーサー命令で警察予備隊が作られた。超法規扱いで、議会の審議はさせなかった。それが保安隊、自衛隊と変遷して今日に至る。もし当時きっちり審議していれば歴史は変わったかも。

 いずれにせよ、自衛隊は旧軍のように「国の中の国」になろうとしてはいないはずである。一般国民を「地方人」と侮蔑的に呼んだ旧軍とは異なって、公僕としての自衛隊のはずである。

 南スーダンPKO日報問題で、防衛大臣・防衛次官・陸幕長の揃い踏みならぬトロイカ辞任。話は単純、開示すべき情報を隠すためのパッチワークをやっているうちに、防衛省の内訌にまで及んでしまった。

責任取って辞任したというよりも、稲田氏はそもそも「及びでない」大臣であった。防衛次官と陸幕長は内訌を納めるための道連れだろう。

 「情報開示すべきものをいたしませんでした。デモクラシーの約束を順守いたしませんでした。申し訳ございません」と、本気で謝ったのだろうか。怪しいものだ。謝るだけなら——Aくんにもできる。

 防衛省はなにしとるのじゃ! と大口叩ける省庁がどのくらい存在するか? 大方の意識は「由らしむべし、知らしむべからず」路線ではあるまいか。要するに、公僕意識など看板にもなっていない――ということが、核心中の核心の問題なんである。デモクラシーが未熟なのだ。