週刊RO通信

若い世代への期待と声援

NO.1440

 先の総選挙の報道で、若者の低い投票率が話題になった。それらの記事で考えさせられたのが、若者の「誰に投票していいかわからない」という見解である。なるほど、18歳から選挙権を手にしても、政治的見識が育っていないほうが多数派であろう。

 もっとも、お先に大人になった人々のどなたさまもが然るべき見識をお持ちかどうか、これまた保証の限りではない。一家言お持ちの方にしても、「あれもダメ、こちらもねえ」と考え込む人が少なくないだろう。政治にたいしては、いろいろさまざまに不満不信が拡散している。

 訳知りの大人としては、各候補者の公約を吟味して、それぞれを比較して、ベストでなくてもベターの人に投票すればよろしい、と助言するかもしれない。あるいは、そんなことに悩まなくてもよろしい、キミが投票してもしなくても大勢に影響なしだ、とニヒルな示唆を与えるかもしれない。

 考えされられたのは、――選挙の投票行動は当然大切であるが、それ自体ではない。「誰に投票していいかわからない」という言葉の背後に、「誰も教えてくれないんだもん」という気持ちが隠れているように感じたのである。まじめな若者は、ひょっとして「正解」を求めているのではないか。

 わたしは受験戦争という言葉が支配していない時代の生徒であった。それでもテストの点数を取らねばならない。勉強はしたが、試験が人生を決定するという強迫観念はとんと持ち合わせなかった。就職試験のための勉強もしない。たまたま、来校された会社人事部長の面接で採用が決まった。

 その会社が、どんな製品を作っているのか、資本金がいくらか程度のことも全然知らない。いよいよ入社して、初めて工場へ入ったとき、予想もしない建物の大きさ、敷地の広さ、そこに1万人もが働いているのを見て、心臓の鼓動が激しくなったような何も知らない新人であった。

 製造業である。品物は正しく質よく作らなければならないし、そのための適正な作業能力を身につけなければならない。一方、直接の仕事を離れたら、会社コミュニティのメンバーは、上も下もない。組合という一種の政治舞台へ2年後からのめり込んだ。手取り足取り教えてもらったわけではない。

 言われるまでもなく、当時の自分は仕事も組合も未熟である。知らないことは山ほどある。理屈をいえば、ベテランにはベテランの、青二才には青二才の立場と言い分がある。仕事そのものはベテランの指導を仰ぐにしても、働くものとしての言い分を、ベテランになるまで待つわけにはいかない。

 そんな青二才が選挙で、ベテラン連よりもたくさん得票して当選した。公明正大な選挙である。青二才でも1人の役員である、ベテランの役員と対等である。自分の思うところは臆せず述べる。間違っていれば改めればよろしい。組合には職場のような作業マニュアルはない。自分がマニュアルだ。

 自分の意見が認められるためには、自分で勉強する。わたしの周囲には同世代の優秀な仲間がたくさんおられた。自前で謄写版セットを買って、仲間との勉強会の資料を作った。勉強すると、とにかく他者に話をきいてほしい。学校では学び得なかった勉強がたくさんできた(と思っている)。

 こんにちの若者たちは、幼い時分からの受験勉強で、ロートル連とは違って非常に知識豊富である。注意しなければいけないのは、知識はどこまでも知識に過ぎない。受験勉強人生から、なにごとにおいても正解があると信じ込んでしまってはいないか。わたしは、これがおおいに心配である。

 18世紀フランスの教育は、イエズス会のコレッジが中心で、ローマ教皇に忠誠を尽くすための教育だった。民衆は指導されるべき存在で、啓蒙の対象ではなかった。こんにち流に考えれば、誰に投票するべきか教えてくれた! のである。当時の教育は国家に有用なエリートのみであった。まさか、こんな調子に戻りたい人はいないだろう。

 民主主義や政治の立派な教科書が作られたとしても、それは単純にいえば基礎的な「読み・書き・算盤」と同じ、社会を円滑に動かすためのツールであって、それ以上でも以下でもない。社会や政治の問題は、算数のような正解がない。あえて言えば、若者には、「納得できるように教えてくれないのなら、教えてやろうじゃないか」という自由な意志と見識を期待する。