週刊RO通信

民主主義サミットの錯覚と誤謬

NO.1437

 ホワイトハウスによれば、アメリカ提唱の民主主義サミットは、民主主義と権威主義の存亡をかけた戦いにおける、アメリカのリーダーシップを示すサミットという位置付けらしい。断片的な報道を拾った段階ではあるが、企画のお粗末さは、いかんともしがたい。論点ボケ、錯覚と誤謬だ。

 政治における権威主義は、民主主義国以外の独特の体質ではない。むしろ、大きく問題になっているのは、看板民主主義・中身権威主義においてこそ、民主主義の柱をシロアリに食い荒らされる。アメリカが権威主義に対抗して民主主義のリーダーシップを執るということ自体が権威主義である。

 Sumit(頂上) for Democracyではなく、Seminar for Democracyのほうがふさわしい。その趣旨は、「世界の政治家における民主主義思想と行動のための自主的セミナー」である。権威主義を振り回すのは大衆ではない。政治家自身である。

 政治のために活動せず、政治によって地位・名誉・財力を得ようとする政治家が多い。この手合いが、ひたすら権力掌握に奔走する。だから、「権力は腐敗する、絶対的権力は絶対的に腐敗する」というアフォリズムが成り立つ。サミットの前にセミナーこそが必要なのである。

 ポピュリズムが登場したこと自体が、政治における政治家倫理の腐敗を証明している。政治家ならぬ、政治商売人が多数派である政治は、ポピュリズム化するのが当然の帰結である。ポピュリズム大国としてのアメリカが、赤裸々に自己批判をするのが、主催者として最も求められている。

 アメリカで、なぜトランプ大統領が登場したのか。アメリカは、トランプ氏が原因でポピュリズム化したのではない。すでにポピュリズムであった流れの上に、トランプ氏が台頭したのである。バイデン氏は、それを覆したが、トランプ的なるものは依然として巨大勢力である。

 権力奪取が目的化している政治家が集まって、その反省・ふりかえりすらできない会合が、果たして世界の民主主義を蘇生させられるだろうか。まして、世界の覇権奪取のために、民主主義を看板として使うのであれば、民主主義に貢献するどころか、国際政治をさらに泥沼化する危惧が大きい。

 韓国の中央日報によれば、文在寅氏は、フェイクニュースの問題を指摘して警鐘を鳴らした。この間、フェイクニュースに市民権を与えたのはトランプ氏である。嘘をつき、言葉を悪用するのは、社会秩序を破壊することだ。人権と自由に基づく民主主義どころか、社会の破壊者である。

 魯迅(1881~1936)は正真正銘の民主主義者であった。「筆一本」に思いを込めて、暴力と因習の渦中で戦い続けた。知識人としての魯迅は、スローガンやドグマにとらわれず、どこまでも大衆の地平にあって、権力者の毒牙を暴いてひるむことがなかった。

 胸中深く啓蒙の志を刻印し、人々の人生のために、人生を改良するべきことを訴え続けた。彼自身が雑文と名付けた小説は、小さな説ではない。「大説」であった。魯迅的啓蒙は、人々がよくよくものを「考える」ようになってほしい、の一語に尽きる。まさに民主主義の出発点である。

 1911年、孫文主導による辛亥革命が成功して、民主主義を標榜した際、魯迅は、「封建清朝を倒すのは比較的容易だった。本質は復古だからだ。しかし、民主主義革命を成功させるのは大変な困難である。なぜなら、1人ひとりが、内なる(民主主義)革命を起こさねばならないからだ」と指摘した。

 民主主義は、ルネサンスが生んだ人文主義が源流である。人間の尊厳に目覚め、自身の人生を通して、自分という芸術作品を追求する。精神的革命は、物理的革命とはちがう。いわば、どこがてっぺんか見えない山頂をめざすのと同じである。魯迅死して85年、いまの「頂上」のなんと低いことか。

 民主主義者にとっての何よりの大事は、「人間的尊厳」に尽きる。人間的尊厳は国家の枠を超える。必然、平和主義を同伴せねばならない。国家の権威に人間的尊厳を従わせようとする国家主義は、民主主義の偽装である。

 わたしは、2つの国家主義A陣営とB陣営のいずれにも共感しない。ともあれ、今回のサミット、いやセミナーで、政治家諸氏が少しでも、民主主義とは何かについて教養を深めてくださることを切望する。