週刊RO通信

組合は「賃金論」を職場に展開するべし

NO.1433

 小さな記事だが、11月11日朝日新聞夕刊の「取材考記」が目に止まった。日本の平均賃金・年424万円、米国は763万円、OECD35か国中22番目。記者は、賃金が上がらない理由について取材していて、興味深かった連合総研の中村天江主幹研究員の指摘を紹介している。いわく、

 ――日本には忍耐を美徳とする企業風土があり、賃上げを主張すると「空気を読まない強欲なやつ」とみられかねず、自らの賃金について受け身の姿勢が目立つ。――記者は、この重たい空気を変えねばならないと指摘する。

 美徳という言葉はたしかに美しい。忍耐も、美徳の1つにはちがいない。耐え忍ぶのはそれなりの努力が必要である。ただし、美徳だと思い込んでいるものは、実はさまざまな欲求が仕分けされず、混然一体に寄せ集まっている。とくに大事なことは、忍耐に値するかどうかを検討せねばならない。

 1990年代半ば以降、組合員の賃金に寄せる態度は非常に慎ましい。たしかに、人々の慎ましさは、たいがいは他者の視線・批判や仲間外れを恐れることからくる。しかし、わたしが組合現役の1982年までは、賃上げといえば、「もっと要求せよ」という人が圧倒的に多かった。「お給金はいただけるだけでありがたい」などと言おうものなら、それこそ空気を読まない奇妙なお方というレッテルを貼られたのである。まことに、いまは昔か。

 企業活動が好調でも、賃上げ交渉すれば、経営側は、あれやこれや懐具合の不如意を熱心に語る。不況や減収減益ならば、鬼の首でも取った勢いで「ない袖は振れない」と意気軒高に反論する。増収増益ならば、将来の不測の事態に備える、設備投資せにゃならん、同業他社に後れを取るという具合だ。

 だから、好不況、企業業績の良しあしにかかわらず、組合は相手を説得するための、いや、その前に組合員の盛り上がる気持ちを固めるために、賃上げの理屈(理論)を磨くことに力を尽くした。交渉どん詰まりは、「出せ」「出せない」的押し問答になりやすいが、詰めを有利に運ぶために、賃上げ交渉といえば、組合員段階での学習会をおおいに盛り上げた。

 わたしの眼には、――賃上げを主張するのが強欲なやつだとか、空気が読めないとみられかねない――というのは、どうも不思議だ。わたしの知る限り、賃上げを忍耐するのが美徳だなどと考えている組合関係者に出会ったことはない。賃金をいただきすぎだと考える人ならば、そうかもしれないが、それはどう考えても決定的少数派だと確信する。

 組合員が賃上げに受け身なのは、儲かれば増えるし、そうでなければ横ばいか、場合によっては賃下げも仕方がないと単純思考しているからだ。1980年代はじめまでは、好不況に関係なく、賃金を決めるのは、労働力の売り手としての1人ひとりだという意識が強かった。利潤と賃金が対立関係にあることも、そして利潤優先ではいかんということも十分理解していた。 

 80年代のバブル期間に、多くの組合が賃金論の学習会をサボった。活況で賃金が容易に上がったからだ。90年代に入りバブル経済が崩壊すると、反転して、「雇用か・賃金か」という事態になった。学習による蓄積がないから、組合員は、賃金は儲かるから上がり、儲からなければ仕方がないという、賃金論以前の無知状態へ戻ってしまった。

 組合的知的水準としては、戦前封建的段階へ先祖返りしているのではないか。戦前日本の労使関係は、家父長的温情主義と労資協調(非対等)である。労務管理手法は典型的なムチとアメだ。経営者は、強圧的命令体制のもとで、黙って働く愛い奴には懐柔策を弄した。

 戦後組合運動が「職場の民主化」を掲げた。それが70年代を前後して「明るい職場」に変わった。めざすは労使対等(集団だけでなく個人も)であり、労働条件に関しては働く人の意見が十分に反映することであった。言いたいことも言わないような企業風土から活発な企業活動が育つわけがない。美徳的風土の秩序の陰で、パワハラやインチキなど不祥事が発生している。

 多くの組合で職場の学習会が消えて、その沈滞ムードが組合運動を支配しているのではないか。22春闘では、職場学習会を全面的に復活させたい。勉強せずして成果は得られない。「賃金論」は、働く人のアイデンティティである。連合はじめ各組合の真剣な取り組みを期待してやまない。