論 考

論争・批判が嫌い

 若者が、政治における論争や批判を嫌うという見方がある。

 もちろん論争のための論争、批判のための批判がよろしくないのは当然だ。しかし、論議すべき課題があるのに論議しないとか、批判しなければならぬ問題があるにもかかわらず沈黙を守るのであれば、わが国は、立派な専制政治である。

 こんにち、わが国は高学歴社会だと信じていたが、この程度の理屈が理解できず、ただ、社会を泳ぐだけの知識しか持ち合わせないのであれば、教育にもっと国税を投入するべきだという見識は空振り三振である。

 あるテーマについて異論がある場合、論議しなければ問題を解決できない。議論が直ちに論争ではない。

 高校時代にはクラス対抗討論大会があった。クラス対抗行事だから、未熟なオツムのわたしらは、とにかく「言い負かす」ことを目的として大奮闘した。

 決勝戦のテーマは、壇上で演説中の浅沼稲次郎社会党委員長(当時)を刺殺した少年Yが、後に獄内で自殺したのが是か非かという、おそろしく飛躍したものだった。とにかく相手を言い負かして、われわれが勝利した。

 なんのことはない、口数で圧倒しただけだ。60年余の記憶があるのは、勝利感ではなく、未熟さゆえの後味悪さである。知に働いて角を立てたのでもなんでもない。のっけから、対決おしゃべり大会に過ぎない。

 知に基づかねばならぬ、理路整然と話さねばならぬ、勝つためではなく、考え得る最善の解を求めようという心構えを忘れてはならぬ。――という気持ちが芽生えた。さらに社会へ出ると、知だけではいかん、情が欠落してはダメだという場面にも何度も遭遇した。

 やっつけるのではなく、相互了解を、異なる意見AとBを、Cに押上げる努力をするのが、デモクラシー精神だと確信するに至った。もちろん、実践となればこんな理屈のように格好よくはいかないが、この考え方が共有されるのが、活力あるコミュニティである。

 若い方々が、論争・批判を嫌うのであれば、そこに立ち止まらず、「A+B⇒C」の理屈を考えて努力していただきたい。