週刊RO通信

衆議院議員選挙戦の「覚書」

NO.1432

 RO通信先週号(no.1431)では、第49回衆議院議員選挙の投票日前日に感想を書いた。今号は選挙結果を見て、自分なりの覚書を書いておく。

 「1強の弊害を正す」という期待は適わなかった。野党が主張した「政権交代」は主体的・客観的に尚早と見ていたから失望しない。確定議席だけ見れば立憲民主惨敗論になる。野党共闘の実力不足は結果の通りだが、小選挙区では野党共闘は著しく善戦した。選挙プロの自民は必死に活動した。

 創業者・枝野氏が辞任するが、誰が後継者になろうとも、共闘路線に背中を向けてはいけない。共闘がなければ、立憲民主はもっと少なかっただろう。選挙は与党や現役議員が有利である。野党に追い風が吹かなければ伸びられないし、事実吹かなかった。小選挙区の野党の善戦は認めねばならない。

 固定的な自民党支持者は有権者の25%程度である。戦前保守の思想的流れを汲んでおり、戦後55年体制以来でも70年近い政治的慣性を作っている。これに大きく食い込んでいくには、投票率が上がらねばならない。低投票率だった17年の53.68%より、今回は、2.25%増の55.93%だから、ほとんど琵琶湖並み無風である。一方、各地で自民党は猛烈な組織固めを展開した。さすが選挙プロである。自民党は必死であった。

 野党共闘が「政権交代」を掲げるのは、万年野党じゃないぞという気概である。挑戦を鼓舞する意味もある。そうではあるが、「1強の弊害を正す」という課題とは、人々に訴える意味が異なる。与党や維新は反共だから、政権を取った場合の不透明感を大宣伝した。しかし、「1強の弊害を正す」共闘であれば、反共を使ったプロパガンダは理屈では空振りしただろう。

 安倍・菅9年間の政治に対する、人々の不満は強かった。「棄権しないで選挙に行きましょう」と言わねばならぬような政治的無関心は先天的なものではない。無意識か意識的かはともかく、安倍・菅政治が人々の政治に対する不信感を高めていたから、そこに焦点を絞って、民主主義と議会政治の再建を徹底して訴えるべきであった。選挙の「土俵」作りの詰めが甘かった。実際、安倍・菅政治の「諸悪」の総括は不十分なまま残された。

 共産党叩きは、戦前からある、「アカ」攻撃のレベルを出ない。与党や維新は、共産党が安保廃棄を主張するから、野党共闘は野合だと批判した。こんな共産党と共に天をいただけるかという。ところで、このトリックは一見説得力があるように見えるが、どえらい大穴がある。

 安保廃棄は、外交政策の1部分である。日本の政党・議員が与野党問わず、共に天をいただくべきは日本国憲法である。もちろん、自民・維新が改憲に熱を上げるのはカラスの勝手だ。しかし、政策合意を形成して、政治の舵取りをするためには、第一に憲法に基づかねば議論が成立しない。

 安保廃棄論を以て、共に天をいただかずと言うのは、憲法の上に安保条約があるのと等しい。一方、アメリカにすれば、たくさんある条約の1つである。これでは、日米は非対等関係である。日本国の上にアメリカ国があるのと同じだ。このような状態を他国に対する従属というのである。すなわち、誇り高き日本国は名目でしかなく、現実は独立国ではない。

 敗戦直後、アメリカの占領体制にあっても、吉田茂首相をはじめとして、いかにフリーハンドを駆使するかに苦心した。1952年に待望の独立を迎え、以来69年が過ぎた。しかし、沖縄において、米軍はほとんど治外法権を持つ現状である。与党・維新の諸氏は愛国者揃いと聞くが、これでは典型的な内弁慶にして、国際的には笑われても仕方がない。遺憾千万である。

 連合も、国民民主も「共闘関係を見直せ」と歯切れがよろしい。ただし、たかだか共産党を叩いて留飲を下げるのは、勝てなかった与党にすり寄るのと同じだという、厳しい指摘が出ている。ここは、憲法第一の原則に立って、わが――政治的慣性――のなんたるかを、しみじみ見直すべきである。

 さて、選挙総括の最大の肝である。選挙は、有権者が政党と議員を選ぶのであって、その結果はすでに承知の通りである。もう1つは、選挙というヤスリで、政党・議員を研磨するのが、有権者の面目である。今回の選挙において、有権者のヤスリの使い方が熟達したものであったかどうか、これもまた、性根を入れて1人ひとりが考えるべきである。