週刊RO通信

親ガチャと似ているアパシー

NO.1429

 10月14日衆議院解散、衆議院議員選挙は19日公示・31日投開票の日程で、いよいよ選挙戦本番に入る。ここまでの経緯を簡単に振り返る。

 9月に入ると自民党内に菅降ろしの動きが出て、3日菅氏が総裁選不出馬を表明、10日に菅氏が記者会見をしたが、なぜ退陣したのか語らず。

 13日自民党総裁選告示、新聞社説は、「(安倍・菅)負の遺産にけじめをつけよ」(朝日)、「脱安倍・菅を」(毎日)、「国家観に基づき政策を論議せよ」(読売)という調子だった。19日投開票、岸田氏が新総裁に選出された。

 テレビは総選挙並み報道で、報道の露出が少ない野党が、不満たらたらだったのは無理もない。岸田氏は10月4日開催の臨時国会で首相に選出された。8日所信表明、11日から13日衆参両院で代表質問を経て、冒頭の選挙日程に入った。菅氏不出馬表明に始まって、解散まで6週間。幸い、コロナ感染が日を追って減少した。さもないと怨嗟の声がぶつけられただろう。

 脱安倍・菅どころか、安倍氏とそのお仲間だらけの党人事、内閣だから、岸田氏にさわやかな風を期待していた向きには極めて不評、負の遺産たる赤木文書問題、サクラ問題、河井問題などにはアンタッチャブル、負の遺産にケジメをつけると、期待するのがナンセンスだ。というわけで、顔は変わったが、安倍・菅的体質を自民党はそのまま引っ提げて選挙戦に入る。

 予想するに総選挙が終わるまで、華々しい言葉が与野党双方からおおいに語られよう。つまるところまるまる2か月間、日本は政治空白の期間になるわけだ。選挙はライブである。メディアは政策論戦を深めよと主張するが、ドサクサ選挙のドサクサ論戦など、場外乱闘もどきアジテーションになりやすい。選挙は議会の構成を決めるもの、今回の大事は、安倍・菅的政治家を選ばないことに尽きる。それこそ、もっとも確かで効果的な安倍・菅政治の総括であり、駆逐である。たかが1票がもっとも実力発揮できる。

 今回の選挙の焦点は、「非自民」野党がどれだけ伸びるかにある。安倍・菅政治なるものは、政界(政局)の安定が生み出した。小春日和に日向ぼっこしている猫は活動しない。猫には失礼だが、政府・自民党は多数議員を抱えることによって惰眠を貪った。民主主義の危機=議会政治の危機は、自民党議員にとっても存在理由を失うことである。それすらわかっていない。

 鍵を握るのは、まちがいなく有権者1人ひとりである。ところで、お勤め人は、細分化した仕事に日々の関心をおおかた集中している。仕事においても、自分が全体のなかでいかなる重要な位置を占めているか、しっかり認識している人は少ないだろう。低賃金で働けど働けど——の気持ちでもあろう。にもかかわらず、仕事周辺だけが、自分の全世界的な位置を占めている。

 そうだとすると、政治などは外部の世界である。組合活動が盛んであった時期には、仕事のみで政治など別世界、という考え方がかなり阻止されていた。単純に選挙支援活動をするだけでなく、組合活動を舞台としておおいに政治の議論が交わされた。実は、いまでも政治的関心の高い人は少なくはないのだが、お互いに交流する舞台がない。もったいない。

 親ガチャなる流行語があるそうだ。いわく、子どもは親を選べず、親次第で人生が決まるという、SNSのスラングらしい。軟弱な若者と切って捨てる人もいるだろうが、わたしは、古代ローマの詩人ホラティウス(前65~前8)の言葉を思い出した。――祖父母に劣れる父母、さらに劣れるわれらを生めり、われら遠からずして、より劣悪なる子孫をもうけん。――

 親ガチャは結局、ホラティウスの現代版だ。表現は深刻だが、笑いたくなる。ホラティウスの時代、ローマ帝国150年、30年前に、人々はわが世の春、ローマ帝国の頂点を極めたかのような錯覚にあった。その30年後には、委縮感や衰弱化が社会を支配していたのである。

 さて、これ、若者だけの話だろうか。アパシー(政治的無関心)たることを、カッコウよろしいと考える大人が少なからず。人生はとかく、挫折や不安に見舞われる。元気をなくした人は権威への盲従的態度になりやすい。無力感や絶望感を身内に培養する人が多い社会はファシズムと相性がよい。いわば、安倍・菅9年間の政治は、親ガチャ的アパシーゆえのアダ花だったともいえる。そこで、「皆さま! ご近所お誘い併せて投票に行きましょう」