週刊RO通信

自民党総裁はデモクラットたるべし

NO.1426

 日本国憲法が、人々の前に登場したのは1946年3月6日、政府から憲法改正草案要綱として発表された。4月17に日本国憲法草案として発表され、6月25日から議会審議が始まり、11月3日に日本国憲法が公布された。施行は1947年5月3日であった。

 46年1月1日に、いわゆる「天皇の人間宣言」が出された。作家の高見順(1907~1965)は、――天皇は現御神ではなく、天皇と国民の紐帯は神話と伝説に非ず云々——かようなことを、敗戦前にもし私が言ったら、私は不敬罪として直ちに獄に投ぜられたであろう。驚くべき変わり様である――と、日記に書いた。1月4日には、GHQが反民主的勢力の掃討粛清の命令(公職追放)を出して、――まさに革命なり――という気風が起こった。

 憲法学者の宮沢俊義(1879~1978)は、政府の憲法改正草案要綱を新聞で読んだ貴族院議員の長老が、「頭がぐらぐらした」と語ったと書き残した。長老がショックを受けたのは、天皇主権が国民の手に移った、つまり主権在民になったことがいちばんの衝撃だった。それこそ、「天の岩戸」以来の驚天動地のできごとというわけだ。一方、国民の圧倒的多数は、天皇主権でなく、国民こそが「至高の総意」たることに改められても、なんら抵抗はないし、違和感すらほとんど見出されなかった。

 政府の憲法問題調査委員会委員長・松本丞治(1877~1954)は、――敗戦までは誰もが命を懸けて「国体」(天皇主権)を守ろうとしていた。天皇主権が国民主権となるについては、さぞかし抵抗があると思っていたのに——敗戦までの「国体」論は単なる見せかけだったのか――と嘆いた。

 松本が自信をもって作成した憲法案は、GHQによって蹴とばされた。蹴とばしたGHQが提示した案に基づいた日本国憲法が、国民にすんなり受け入れられ、歓迎されたことが松本にはとても納得できなかった。

 宮沢は考えた。――いちばん深い原因は、人間の尊厳が確立されるとともに、国民主権が、いわば世界史的必然として、各国の政治舞台で主役の地位を占めるようになった。敗戦によって日本は、君主主権から国民主権へ変わったが、かりにその逆の、国民主権から君主主権へ変えろと強制されたとするならば、とうてい国民多数の支持を得られなかっただろう。――

 ――人間が人間であるからには、人間主義は当然であり、人間の尊厳が当然であり、国民主権は、その当然の結果である。たとえ降伏によって促進された事情があるにせよ、その本質においては、世界史的必然性をもつものと見なくてはなるまい。――

 こんにち、国民主権=主権在民は、どのように定着発展しているだろうか。主権在民を政治に生かすのは政治家・政党の仕事である。目下、いずれの政党も主権在民やデモクラシーに敵対してはいない。幕府時代の名前や明治の言葉を看板にしている政党もあるが、いずれもその時代へ戻ろうとするわけではないようだ。要するに全政党がデモクラシーの政党である。

 もっとも大きい疑問は、主権在民の日本国の活動に、日米安保条約を柱とする日米同盟が、あたかも「前提されている」ことである。1人自国がお山の大将をめざすのではなく、国際交流を深めて、国際国家・国際人として立つことは歓迎する。しかし、日米同盟を絶対不可侵の地位においてしまうと、外交戦略・戦術が束縛されるし、もはや日本は独立国とはいえない。

 さらに辛辣な表現をすれば、敗戦までの天皇国体論が、安保国体論に成り代わっているではないか。国の安全を第一として、国が安全でなければ国民の安全はないという論法である。これは安保国体論であって、国民主権を国家主権へ置き換えるという狡猾な狙いが透けて見える。

 人々の公正な選挙によって選ばれた連中が、権力を制限する憲法を無視して、好き放題やったのが安倍・菅政治の9年間である。民主的仮装をした権威政治・独裁政治は、こんにちの世界には決して少なくない現象である。民主主義体制が民主主義政治を必ず約束するわけではない。

 自由と民主の自民党総裁になるべき政治家は、党員以外の人々からも、「デモクラット」であると認知されるように、政治家道を学び歩んでほしい。くれぐれもデモクラシーに、頭がぐらぐらしない人であってほしい。