週刊RO通信

総裁選本番 総選挙自民敗北への道中

NO.1425

 自民党総裁選挙の前哨戦がようやく終わって、17日から本番が始まった。総裁選の意義は、どなたさまが総裁になられても、来るべき総選挙の敗北からは逃げられない。総裁候補者のキャパシティーは大方見えた。看板役者が力不足、退屈な芝居を繰り返し見て喜ぶ観客は珍しい。総裁選本番で変わり映えしない芝居を見せつけられて、自民一座離れを起こす観客が増える。

 自民党が総選挙で敗北するならば、自民党諸君にとっては不都合だろうが、日本の政治をよくしたいと考える人々にとっては幸いである。好き放題やってきた自民党の敗北、すなわち日本政治の出直しへ向かうからである。

 坂口安吾(1906~1955)は、『堕落論』において、「堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わねばならない」と書いた。もちろん、安吾は政治による救いなど全然期待していない。これは赤裸々な1人の人間としての言葉だが、わたしはあえて、政治なるものの出直しに引っ掛けたい。

 自民党をだらしなく堕落させたのは、かの「安倍+菅」ご両人である。他者の問いかけにまともに応答しない態度について、たびたび批判してきたが、彼らは(政治家の)言葉の信頼を失墜させ、政治家の価値を貶めた。

 自宅療養とは、本来快癒前に明るい見通しの療養であるが、いまの実態は医療放棄であり、医療難民である。自粛とは、感染しない・させないように、自分で責任を取れという意味である。かつ、感染が減らないのはお前ら国民のせいだという次第だ。憲法第25条を引っ張り出さずとも、人々の生活危機に対して、政治家が全力投入しないことは、政治の崩壊をも意味する。

 「安倍+菅」の9年間、野党が請求した臨時国会は開催されなかった。(開催して解散に打って出たことはあった)話し合いを確立し充実させるべき国会をとことん無視して、程度の悪いつまみ食いとでもいうべき汚職を追及されると官僚を総動員して遁走する。無責任政治の見本である。

 政治を現実に崩壊させつつも維持されている政治とは何だろうか。正論なく、倫理道徳なく、権力の頂点に立つ者が好き放題やる。どこかで見た光景だ。あえていう。アウトロー、無法者、Yの字、不逞の輩の世界のしきたりである。日本政治をアウトローにまで堕落させたのが「安倍+菅」政治である。「安倍+菅」政治の反省・批判ができなければ候補者諸氏は同類だ。

 前哨戦で明らかになったのは、派閥の力量低下である。麻生派は、出馬する自派の河野氏に一本化できない。出したくないからである。しかし、本人が出るといえば止められない。親分のメンツ丸つぶれ。最大派閥細田派も自前候補を擁立できない。量が質を規定する。数多くして質が下がる。自民党お得意の多数決は、水が低きに流れるのと等しいことが証明された。

 安倍政権8年間は堂々たる長さである。その間、なぜ次世代ルーキーが育たなかったのか。かつて派閥は人を育てたはずだった。人を育てない派閥は単なる徒党である。また、派閥の人物が長期政権を担っているのに、後に続けという気風が育たなかったのも不思議。なんとなれば、(先輩の)背中に盗むべき仕事が見えなかったからである。反面教師から学ぶのは少々難しい。

 安倍氏は地球儀俯瞰外交を唱えた。外遊は多かったが、外交の成果があったか。日ロ・日中・日韓・日朝の近隣外交に見るべきものがあっただろうか。いずれも関係が下降したのはわかる。日米安保同盟に丸投げして、知的惰眠を貪ってきたツケが出た。候補者は4人出た。愛国者揃いの自民党にしては、目下の日本的状況に対する危機感が感じられない。まことに遺憾である。

 経済はコロナ以前から不活発。株式だけ見ていたのでは危うい。産業界の実力低下は隠しようもない。財政はずたずた。税収があろうがなかろうが、国家予算は膨れ上がるばかりだ。国債が打ち出の小槌ならば、世界の貧乏は直ちに解決する。というわけで、立候補した4人はエライ。自分が、「安倍+菅」政治の尻拭いを本気でやるつもりであれば——。危機感なき自己宣伝を見ていると、どうせ長くはやらないのだからという気配が漂う。政治において責任という言葉が感じられない、大きな危機の時代である。

 総選挙で自民党敗北が証明されるならば、わが国の政治はそこから出直しが始まる。野党は焦ることはない。本当に政権を取れば、火中の栗を拾う程度の話ではない。来るべき時のために、実力と英気、胆力を鍛えるべし。