週刊RO通信

先人の遺産を食いつぶす日本

NO.1424

 読売社説(9/11)は、「だれが『選挙の顔』になりうるかではなく、政策や(人の)資質を十分に吟味して判断する必要がある。自民党は、責任与党として実のある政策論争を行わなければならない」と書いた。前段は反対する理由がない。さらにいえば、すべての選挙において、人物・政党のいずれについても、国民が選ぶ側として、頭に叩き込んでおくべき基本である。

 後段の「自民党は、責任与党としての」については、与野党問わず、すべての議員・政党が、国民に対して責任を負う。たまたま自民が与党だから責任与党というのであって、「野党は、責任野党」である。聞き流すと、自民党は責任与党で、その他は刺身のツマみたいなので、あえて一言補足する。

 議員が「国民に寄り添う」と語るのは、わたしは嫌いだ。そもそも、すべての議員は人々に選ばれるからこそ議員面ができる。あたかも天下って、手を差し伸べるがごとき表現をして違和感がない人物は、民主主義がわかっていない。議員が「国民の視線で」と言うのも耳障りだ。当然の前提であるから、そうでない場合にこそ、いかなる視線によるのかを語ればよい。

 目下自民党総裁選挙に立候補した3氏は、もやしっこ(岸田)・みこ(高市)・ぶりっこ(河野)という印象だ。岸田氏は、新自由主義的政策を転換するという。政財界の石頭と大論議する気概ありや。すでに安倍氏に気兼ねしているようでは、芯の強さが見えない。高市氏は、全面的に安倍教の推進者である。河野氏は、異端児が売りだが、自民党的「よいこ」に収縮しつつある。

 自民党総裁選において、「安倍+菅」政治9年間の総括ができるだろうか。高市氏は安倍継承だが、岸田・河野両氏ともに、安倍氏の影響力を考えてか、自由に見識を語り得ていない。選挙戦で本音を言えない状態では、当選したとしても、自前の政治を展開できないだろう。これで果たして、「責任与党」であると胸を張れるだろうか。

 コロナ以前から、わたしは、わが国の活力がないことが大懸念である。年収は上がらず購買力が低下している。2020年の平均年収は約440万円だが、20年前は464万円である。この間米国は25%上昇、OECD諸国は15~45%引き上がった。国民所得から見て日本の後退は甚だしい。

 13年に安倍内閣と日銀は2%インフレ論を掲げて超金融緩和を開始したが、いまだ目的は達せられない。代わりに金融市場をマネー洪水にした。株式相場は日銀とGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)によって買い支えられている。株高=好景気は間違いなく錯覚である。

 さらに円安である。1ドル=110円程度は、1973年当時と同水準である。過去25年間の平均値より25%安い。しかも、円安であるにもかかわらず、輸出が増えない。貿易黒字は弱含みトントンである。対外直接投資は急増しており、海外現地法人の内部留保は40兆円を超えている。円安でも輸出が増えないのは、日本企業の輸出競争力が落ちているからだ。これで円高になれば輸出競争力が維持できない恐れがある。

 これからは、モノづくりではなく金融立国だという見解があるが、金融の柱である銀行の基本的職能は仲介業にすぎない。仲介業の隆盛があるとすればそれは実物経済が盛んだからである。いまの日本経済は、水で膨れたお粥経済というべきである。経済大国の看板はすでに大きく綻びている。

 仕事の現場は、コロナ以前から著しく活力が減退している。上下左右に発信力・受信力が弱く、したがってチーム力が発揮できない。開放的な組織文化をもつ企業を探すのが難しい。不祥事が発生した某企業の経営者が、手許に情報が上がってこなかったと弁解した。上層部に不都合な現実が上がってくると考えていること自体が経営者失格である。

 日本人はもともと変革志向性が弱い。変革志向性が強いならば、鎌倉幕府以来明治維新まで700年近く封建身分社会が続くわけがない。めずらしく社会的に変革力を発揮したのは、明治維新からの30年間と、大東亜戦争に降参した1945年からの30年間である。明治の30年間の遺産を食いつぶして敗戦し、敗戦からの30年間の遺産を食いつぶしつつ今日がある。

 ぞろぞろコピーを並べたが、「安倍+菅」9年間は、なにも変革できていない。これに正面から対峙しなければ責任政党とは言えない。