週刊RO通信

トカゲの頭切りでは終わらない

NO.1423

 スポーツ新聞タッチの大見出しが躍った。本来、現職首相が辞任表明すれば大ニュースには違いないが、早く辞めろと注文し続けてきた筆者としては、意外感はさらさらない。むしろ遅かった。やれやれだ。なんとなれば、この1年間近く、わが政治は中身があったか。説明しないのが菅流だが、実は中身がないから説明できなかった。

 コロナを対策するのに総裁選は大変なエネルギーを取られるから、両方取り組めない。ゆえに総裁選出馬を断念してコロナ対策に一意専心するという。ボキャ貧を補えば、総裁再選の目途が立たない、なんとか再選されたとしても、衆議院議員選挙の勝利の明かりは見えない。いずれ引責辞任は必至だ。ならばこの際、即身成仏してあわよくば影の功労者たりたい。これが本音だ。

 「安倍+菅」政権の最大特徴は、なりふり構わぬ政治日程=政権獲得・維持にある。人々の安心安全・生活向上などは所詮看板、政治学でいうところの典型的権力政治である。辞任意思決定は、政権維持の見通しが立たない。とりわけ党内の批判が厳しい。従来は問題先送りでお茶を濁したが、総裁任期・衆議院議員任期の満了でツケが効かなくなった。

 誰がやってもコロナ災害は、効果的対処ができないという似非同情論が出ているが、これはご愁傷様のご挨拶と同じ。同時期に異なる政策で比較できないのだから、なんの慰謝にもならない。人々が、菅氏は一所懸命やっていると見ないのは意地悪でない。自宅放置を自宅療養というごときコピーを作るのだから、お人よしの我慢にも限界が近づいている。

 唯一、公約「国民のための政治」実績としては、時期が遅かったが、お得意の人事権を行使して、自分を更迭したことである。これも、自分に諫言する人材を放逐した結果、イエスマンばかりになったので、後は、自分を切るしかなかったのではあろうが。

 明治時代に、中江兆民(1847~1901)はわが国の政情を論じて、「多頭一身の怪物」「政党なくして群盗のみ」と痛罵した。まさに、その伝統を受け継ぐ自民党は、トカゲの尻尾切りも常套手段だが、頭の1つや2つ着脱自在、かつては、「総理総裁、1年、2年の使い捨て」なる名言(?)もあった。よく言えば人材豊富、斜めに見れば、神輿は軽いほどよろしい。

 自民党内で菅ブーイングが巻き起こったというが、この間、その施政方針を了解して担いできたのも自民党だ。菅氏1人を片付けて万事OKというのは虫が良すぎる。菅氏は首相としては1年だ。

 コロナの威力を知ってか知らずか、いわば敵前逃亡よろしくバトンを渡した安倍氏が、コロナ初動体制をきっちり構築しなかった事実、安倍・菅二人三脚で長期政権を構築した事実。安倍・菅共通する政治体質を知りつつ、安倍時代から国民世論の批判を無視して、自民党諸君は議会多数派の安逸を貪ってきたのである。兆民居士の批判をそのまま進呈しよう。

 すなわち、「安倍+菅」政治の決算なくして、選挙でリセットとはいかない。いったい、核心としなければならない問題とは何か。

 選挙で党派入り乱れ、勝敗が決するのは当然である。しかし、かりに過半数多数党となったとしても、人々は全権委任するわけではない。ところが、自民党には昔から、政権を獲得したのだからすべて任せてもらいたいというトンチンカンな思想傾向がある。いかなる政治体制であろうとも、まして、民主主義の議会政治においては、議会審議を充実させるのが基本的任務である。これが、政治の品質である。

 ベンサム(1748~1832)は、「最大多数の最大幸福」を語ったが、これを多数決に直結するのは大間違いである。最大多数の最大幸福は、目的であって、多数決は単なる方法論である。数の多寡が問題でなく、いかに最善の結論を合意するか。その認識なき政治家は、政治家としての資格がない。

 安倍・菅政治の特徴は「説明しない政治」、「検証しない政治」に尽きる。政治の品質が向上するわけがない。選挙は、株式市場のように、菅氏辞任で相場が上がるような軽薄なものではいけない。こんな考え方では、早晩、日本社会は沈没しても不思議ではない。この国の人々は、国民たることを辞任できない。自民党政治の品質を徹底的に検証する時が来た。