週刊RO通信

コロナ戦争--この次は「連続決戦」か

NO.1418

 今年4回目の緊急事態宣言が8月2日から31日までと発表された。

 振り返れば、まず1月7日に、期間8日から2月7日で、東京・埼玉・千葉・神奈川に宣言発表、13日には栃木・岐阜・愛知・京都・大阪・兵庫・福岡が追加された。飲食店中心に「集中的・限定的」という狙いであった。

 4月23日には、25日から5月11日まで、東京・大阪・京都・兵庫に宣言発表、狙いは「短期集中、連休の人出抑制」であった。短期決着の基調である。当初から期間が短いと批判され、結局、期間は6月20日まで2度延長。愛知・福岡・北海道・岡山・広島・沖縄が追加された。

 7月8日には、12日から8月22日まで、東京・沖縄に宣言。「先手先手、予防的措置 東京起点の拡大阻止」が狙いとされたが、あたかも宣言が感染拡大宣言であったかのごとく、全国的に感染拡大。7月31日には、全国で12,342人増加、累積927,322人を数えた。

 今回宣言対象に埼玉・千葉・神奈川・大阪を、蔓延防止対象に北海道・石川・京都・兵庫・福岡を追加し、期間8月2日から31日とした。

 記者会見で菅氏は、「今回の宣言が最後となるような覚悟で対策を講じる」と語った。従来、決意や覚悟がなかったのかという嫌味は横へ置くとしても、最後となるような覚悟の中身がない。官邸幹部あたりからは、ワクチン効果が出て大丈夫という、相も変わらず課題先送りの楽観論が聞こえてくる。

 度重なる宣言による自粛の緩みやワクチン接種の遅れに加え、感染しても重症化しないと、安易に考える若者が増加している(読売社説7/31)という恨み節(?)も出ている。しかし、楽観論の発生源が政府中枢だという事情は、大方の人々がわかっている。五輪も折り返しだが、どうなるか。

 1941年12月8日の真珠湾奇襲攻撃で大戦果に狂喜乱舞した。以降は全然パッとしなかった。もっとも国民に対しては、つねに戦果を誇っていた。ところが42年12月8日には、戦争指導部は「国民の戦争意欲が不足」しているとご機嫌斜めだ。正直に事実を報告していれば、それなりに人々がさらにさらにマナジリを決したかもしれぬが、正確でない情報を流しているのだから、戦意不足とすれば、その原因を作っているのは政府であった。

 敗戦までの毎年元旦は、「今年こそ決戦の年」という宣伝が恒例化した。戦争指導の責任は棚に上げて、「豊芦原の千五百秋の瑞穂の国」だから負けることはないと神頼み。がんばらないのが悪いのだと発破をかけるのみ。なにやら、自粛の緩みをぶつくさ言う姿には、戦時中に共通する「なにか」がある。

 ワクチンを打つ以外に打つ手がない菅政権としては、次のコピーは「連続決戦」宣言を掲げるしかなかろう。人々が、わざわざ感染拡大を推進しているわけではない。菅氏が「最後となる覚悟」を語るように、人々の「最後となる期待」もまた大きいのである。遺憾ながら両者はかみ合っていない。

 暑い日が続く。気が向いて、大岡昇平(1909~1988)『俘虜記』を引っぱり出して読む。氏は、1944年7月35歳で、フィリピン北ミンドロ島に暗号手として放り込まれた。彼我の戦力差はお話にならない。コテンパンにやられて潰走、45年1月25日息も絶え絶え状態で米軍の俘虜になった。同12月に解放されて帰国する。俘虜的生活にもいまに通じるものがある。

 氏はもともと日本の勝利を信じていなかった。絶望的な戦に引きずりこんだ軍部を憎んでいたが、彼らを阻止せず、何ごとも賭さなかったのだから、いまさら彼等によって与えられた運命を抗議する権利はないと思っていた。

 日本軍の作戦・軍隊自体の愚劣さをとことん見つめ、他にも『レイテ戦記』『野火』などを発表、終生戦争を通して、日本と日本人を考えた続けた作家である。生涯で軍隊におけるほど瞑想的であったことはないと述懐した。

 前線でも日常的狡知が幅を利かせる。腐ったミリタリストに欺かれていたが、とりわけ特権あるものは堕落する。氏は、開高健(1930~1989)との対談で「負けたということが、昭和20年代のわが民族の大問題のはずで、40年代(対談当時)もそうだと思います」と語った。

 わたしは、この言葉はそのまま現代にも当てはまると確信する。昔もいまも日本人的なるものは変わらないみたいである。コロナ騒動があぶり出しつつある「なにか」を掴みだすのが、現代人の課題だと考える。