週刊RO通信

自分流「グレート・リセット」論を

NO.1415

 世界経済フォーラム(WEF)の、今年のダボス会議は中止になった。テーマとして予定されていたのが「グレート・リセット」である。

 グレート・リセットという言葉は、2008年世界金融危機の際、米国のR・フロリダが最初に使って話題を呼んだ。世界金融を巡っては、1980年代に英国のS・ストレンジが、――金融カジノの元締めが大銀行と大ブローカーである――として、著書『カジノ資本主義』(1986)で痛烈に批判した。フロリダ説も、カジノ資本主義に対する問題提起だが、それから10数年の世界金融がカジノを店仕舞したどころか、ますますお盛んだ。

 今度のグレート・リセットは、世界中が惨憺たるコロナ騒動にあるなか、WEF会長K・シュワブが著書『COVID-19:The Great Reset』で、――いま、行動を起こして社会をリセットしなければ、われわれの社会は深刻な痛撃をうける――と警鐘を鳴らす。世界は全般的危機にあり、あらゆる(人為的)仕組みを再び始動状態に戻そうと主張する。

 コロナ後の「新常態」を唱えて、新しいビジネスチャンス到来とばかり浮かれている立場とはまったく異なる。俗にいえば、壮大なガラガラポンの新規まき直し提唱というわけだ。その主張を煮詰めれば、経済成長至上主義のGDPカテゴリーを放棄して、世界を目的論的に組み立てる。めざす柱は、人々の幸福と地球の持続可能性の2つに絞り込まれる。

 まことに理解しやすいし、共感する。ただし、わかりやすい主張と、現実の取り組みとは無関係である。天動説が地動説に変わった以上の意味を持つ。地球に住む1人ひとりの価値観を引っくり返すといっても過言ではない。

 「人間とは何か」という命題が必然的に登場する。われわれは現実に存在する。形成されてきた歴史の流れは、巨大な慣性であり、われわれの現存在は歴史的存在である。まずは世界の人々の多くが、歴史において、自分はいかなる存在であり、いかに生きるべきかを切実に問い詰める必要がある。どなたさまかにお任せしていては、空想の域を出ない。

 換言すれば、自分の生を歴史から引き出さねばならない。1つの歴史の見方として、歴史の発展とは、すべての人間が有形無形の束縛から自由になることである。個人は、自我という作用に支配されており、同時に、自分自身の環境世界を持っている。世界は、78億人、1人ひとりの自我と、その環境世界との体験的連関の巨大な総和である。まことに茫々漠々としている。

 世界にはさまざまの危機が発生する。人々が1枚岩であれば、多くの危機は克服できる。しかし、現実には、1枚岩どころか、人々の間における信頼が欠如している。人間は、前提として信頼関係を持っていない。人々の信頼を前提とした政治が信頼を高めているであろうか。信頼関係は、1つひとつの問題現象を納得して処理するなかから構築されるが、現実の政治は信頼関係を破壊することに熱心だと言いたくなる。

 それでもなんとか、それぞれの国において政治が機能しているのは、人々が政治を権威として受容している結果であるが、権威たる政治自身が、多くの場合頽廃的である。コロナ禍という、全人類的災難にあって、災難が全体で共有されているのであれば、同じ災難でも人々の心構えに力が入る。

 わたしは、グレート・リセットの考え方がよろしくないというのではない。賛成である。世界中がコロナ危機で呻吟し、苦しい体験を共有しているのだから、もし、圧倒的多数の人々が、人間という、か弱い存在に気づき、みんなで事態を克服していこうと考えるようになれば大きな一歩になる。

 現実に存在するわれわれは、あたかも大海において漂流しているようなものだ。人々は全人格としてのお互いを認め合っているだろうか。社会は生産を軸として動いている。人々が生きるため、つまりは必要な消費をするために生産するのであるが、人々は生産のための機能の一部として扱われているではないか。目的が見失われ、手段が目的化している。

 このように考えると、グレート・リセットを推進するために、まず、1人ひとりが、自分が自分としての自由な生を追求するために、あてがわれたものをこなすだけではなく、社会的目標を自分流に構築する努力をしなければならない。社会において、よりよきものを求める思索に立ちたい。