論 考

『欅の木』

 井上靖(1907~1991)に『欅の木』(1971)という小説がある。前年、日経新聞で連載した小説である。

 還暦を3年後に迎えるサラリーマン社長の潮田旗一郎が、妻・二男・二女の家族の間ではまるで威厳がない。家族関係が地味なユーモア調で描かれる。ひょんなことから「けやき老人」(と称する)と知り合い、欅の保存運動に参加するようになる。

 日々の普通の会話を通して、社会への作家自身の見識を小説にしたものである。淡々とした展開だが、井上流人生観が顔を出している。

 1つの主人公はもの言わぬ欅である。欅は高さ20メートルにも達する大きな樹木である。たとえば、いまは見る影もないが、恵比寿の台地は欅が群生していて、樹齢300年の堂々たる欅が100本近くもあったそうだ。『欅の木』が書かれた当時はすでに20本程度に減っていた。落葉公害で掃除が大変だから、伐採せよとマンションなどの住民が地主に働きかけたのが主たる原因だった。

 この5月末に、代々木公園の樹齢35本余の欅の木の枝が、都によってたくさん切断された。五輪のPV(Public View)の画面設置のためである。もちろん、公園を愛する都民の反対があった。しかも、コロナ感染拡大防止で、人が多数集まらないようにしてくれと注文しているのは都知事である。埼玉県知事は、PVを中止すると語ったが、これが常識というものだ。

 短期間のスポーツイベントのために、伐採ではない枝の切断だとしても、樹体を痛めつけねばならない必然性があるだろうか。小説『欅の木』は、地味な小説であるが、突然、本棚で光ったので、ページをめくっている。