週刊RO通信

英雄無き時代ではあるが——

NO.1409

 現代は英雄無き時代というべきであろう。わたしはデモクラットの志を抱くので、いわゆる英雄待望論ではない。たまたまベートーヴェン(1770~1827)の交響曲第3番「エロイカ」を聴いて、考えるところがあったので、今回は英雄という言葉をめぐって一文を呈したい。

 ナポレオン・ポナバルト(1769~1821)の人間性に共感していたベートーヴェンが、彼に進呈するつもりで作曲した交響曲第3番は1804年に完成した。直後、彼が皇帝の座に就いたので、「俗物め!」と激怒したベートーヴェンは、献詞を書いた曲の表紙を破り捨てた。よく知られた話である。

 ベートーヴェンは耳の病気で自殺すら考えた。音楽の女神の啓示を感じて、音楽に対する自分の才能を精一杯開発すると誓い、作曲活動に全身全霊を打ち込んだ。若い時代、啓蒙思想を学んだベートーヴェンは、地位や名誉で君臨する政治家など唾棄する以外のなにものでもなかった。

 彼にとっての英雄は、戦争屋や連戦連勝の勝者にはなく、その人間性、人々に対する志、品位、人生の敢闘精神であったろう。英雄的行為とは、本来、道徳的であり、人々の社会的活力を引き出すことでなければいけない。

 関連して思いつくのは夏目漱石(1867~1916)だ。漱石さんは、西園寺首相の園遊会招待を断り、文部省が執拗に文学博士を贈るというのを断った。小説家と作曲家の共通する勝れた品性を感じられるのは実に愉快である。

 漱石さんの短いコラムに、「佐久間艇長の遺書」(1910)がある。佐久間勉大尉は、山口県沖で日本初開発の潜水艇の訓練を指揮していたが、事故発生して浮上不可能になり沈没した。後に、艇長と配下13名全員が最後まで持ち場を離れず殉職したことがわかった。艇長は最後の最後まで事故の詳細を記録し続けた。漱石さんは、英雄無き時代に、これこそやるべきことをやった真の英雄的行為であると絶賛した。

 話は変わって漱石さん没後105年の現在である。新型コロナとの戦争だなどと修飾語を並べて騒動している。戦争と御託を並べるにしては、戦争指揮の頭も腰も定まらない。地球の誕生は46億年前、ウイルスの誕生は30億年前、ホモサピエンスの登場は20万年前である。相手とは歴史が違う。しかも、依然として相手の正体、所在すらほとんどわからない。

 専門家に言わせれば、疫学データが少ない。対策の司令塔が見えない。ウイルスが変異して大変だと言うが、ウイルスが変異するのは当たり前。ワクチンへの全面依存は無理筋だ。後遺症も出ているが、ほとんど対策など始まっていない。医療はアップアップ、頼みの綱は最初から自粛一本鎗、政治家諸氏は得意の弁舌で、いかに人々をその気にさせるかについて、無い知恵を絞っているというポンチ絵状態である。データといえば感染数字に止めを刺す。相撲でも野球でも数字は単なる結果に過ぎない。

 さらに世間から見れば、専門家・中央政治・地方政治の足並みが不揃いである。もちろん、「科学は混沌としたもの」であるが、昨年1月からいままで、科学的知見を進化させるために、いかなる手立てを打ったのか。科学的知見がほしいにもかかわらず、政治家諸氏の「非」文学的言辞ばかり目立つ。

 コロナ禍でも五輪パラ大会は開催可能というような「暴言」「放言」が大きな顔をしていることを見れば、事態がいかに混乱しているか、よくわかる。IOC・組織委員会・東京都・政府の4つは、まさしく「閉じた社会」である。これは単純に五輪実現シンジケートである。

 IOCが大きな事業を展開するといっても、イベント屋である。政府と都がイベント屋の下請けと化してどうするんだ。五輪パラ大会へ向けて選手たちが研鑽努力を重ねてきたことは誰も否定しない。が、それを錦旗として開催一直線というのは圧倒的多数の人々の考えを無視している。対コロナ防空壕で選手の活躍を見て元気を出そうとでも言うのか。

 人獣共通感染症(zoonosis)の概念は紀元前からあるらしい。専門家は、感染症克服は幻想だという。直面している事態で、五輪パラ大会の成功という大事業! にうつつを抜かす余裕があるのが不思議だ。政治家諸氏に大きな英雄になれとは口が裂けても言わない。しかし、「いま、何をやるべきか」 程度の見識を持ち合わせて、着実な仕事をしてもらいたい。