週刊RO通信

東京五輪は、「世紀の災典」?

NO.1408

 6月8日から10日にIOC理事会開催が予定されている。東京五輪をやるべきか、やらざるべきか。菅氏はブロークンCDみたいに、安心・安全の開催を唱えている。開催一直線の条件は整っていない。いよいよとなって、参加を中止する国・地域が増えてもおかしくない。そもそも、このような環境において開催を強行することに本当に価値があるのだろうか。

 日本での初の五輪(夏季大会)は1936年に、「1940年東京五輪」が決定した。紀元2600年祭として盛り上げようと図ったが、31年の満州事変から、37年には日中戦争を本格化させた。ために外国の批判に加え、五輪にマンパワーを取られるのを軍部が嫌って、五輪「返上」となった。

 2回目は敗戦後の53年に第17回大会(1960)へ手を挙げたが、ローマに決定。56年に第18回大会(1964)、アジア初の東京五輪が決定した。五輪開催の意義は、戦後復興した日本を国際的に宣伝したい。社会資本を整備すること、大会の実入りとして外貨500万ドルを期待した。競技大会は94か国から5,558人の選手が参加して盛り上がった。

 宴が果てれば、山陽特殊鋼・山一證券倒産、電機業界は深刻な家電不況で高度経済成長に頭から水をかけられた。社会インフラは新幹線はじめ交通体系中心で生活環境がお留守、過密都市対策が放置され、さらに公害列島と内外に認知される始末になる。『東京百年史』では、「1か月足らずの巨大運動会は都民生活を豊かにする要素になりえず、運動会用の化粧は東京の体質改善による結果としての美でなく、あくまで化粧に過ぎなかった」と記した。

 今回は、誘致時点から厚化粧の復興五輪で、「アンダー・コントロール」に始まり、32兆円の直接間接経済効果という超幻想がばらまかれ、当初予算7,340億円の4倍(予想)という乱脈ぶり、「おもてなし」大宣伝は空中分解、本音の商売は期待するほうがナンセンスである。五輪は壮大な消費イベントだが、経費が膨れるばかりで帳尻は合わない。五輪は、国威掲揚の化粧と商業主義の実利が一体化した夢のイベントであるが、放送権料で稼ぐメディアを除けば超不採算事業、各国選手の参加も危ぶまれる事情で、夢は悪夢みたい、運動会後の一大政治問題と化すのは必然であろう。

 誘致時点の都知事・猪瀬氏は、「日本人の元気を引き出すために誘致成功に全力で奔走した。開催すれば、選手が生み出すドラマは人々を感動させ、夢の力で、明るい目標をもたらす。世界に公約した五輪開催を実現する責任がある」、そして「コロナ禍で開催する勇気」(要旨)を主張する。

 これは勇気だろうか。まずはコロナ収束に全力投入するのが勇気であると考えれば、猪瀬流は蛮勇にみえる。理非を考えず突進する、向こう見ずである。思慮分別なく血気にはやるのは匹夫の勇だ。勇気の中身が問題だ。

 選手の活躍はドラマを生むであろう。ところで五輪は開催に至るまでのプロセスもまた大きなドラマである。組織委員会はじめ関係者がねじり鉢巻きの苦心をしているのではないのか。そうであれば、関係者の尽力自体が人々の同情・共感を呼んで競技以前に、盛り上がるはずである。しかし——

 スポーツの力も、自己表現と自己主張を、肉体を通じて発揮する。いわば現代人が失って意識しない野生の力である。五輪はスポーツ・エリートと観衆の関係で、いわばショー(ビジネス)である。人々がわがうちなる野生の力を刺激されるところに、観戦の意味があろう。ただし、他人が作ったドラマは、一種の幻想であるから長続きしない。スポーツは自分がするものだ。

 「五輪は参加することに意義がある」(勝つことだけが目的でない)という言葉は悪くない。そこで今回は、「(東京五輪は)開催することに意義がある」という言葉が歴史に記されるであろうか。

 かつての五輪報道では、「世紀の祭典」「平和の祭典」「スポーツの祭典」などの言葉が躍った。今回開催するとすれば、どんな表現が登場するだろうか。祭典が祭典たる理由は競技者だけではなく、たくさんの人々が参加することである。もちろん、従来のような巨大運動会で盛り上がるだけでなくても、東京五輪の開催を巡って、人々が賛否両論、愉快も不愉快も含めて盛り上がるならば、異変種的ではあるが、それなりに祭典だと理屈づけられる。そこで(わたしの提案)「世紀の災典」と名付けてはいかがだろうか。