週刊RO通信

士農工商から現代を連想する

NO.1399

 朝日の天声人語(3月17日)が、以前、幕末の種痘事情について「士農工商の身分を問わず」と書いたところ、歴史学者ら読者から「士農工商の理解が古いのでは」と指摘された。いわく、士農工商をピラミッド型の堅固な序列と思い込む傾向は正しくない。武士に支配された「農工商」は代々不変の身分でなく職業的区分けに近かった。村に住めば百姓、町に住めば職人・商人と呼ばれ、上下意識は薄かった。「武士への不満を抑えるため身分間で反目させた」との記述も教科書から消えた云々――

 おおざっばにいって、当時の人口構成は、農業80%、工商10%、その他10%である。人口構成からすればピラミッドという表現がそもそもしっくりこない。ともあれ、徳川封建制は、武士(それに貴族・神官・僧侶)が支配階級で、農工商、それ以外にえた・ひにんがあり、武士階級が絶対的権力者で、牢固とした身分制度を形成していたことは覆しようがない。

 「農工商」は横並び解釈でもよいが、農民は、庄屋・名主・組頭・百姓代という村落の支配層がおり、町人は、奉行・町年寄・町名主という支配層がおり、農民も町人も両隣向こう2軒の五人組を形成させられて、納税の連帯責任を負わされたり、お互いの密告・訴人体制でがんじがらめに監視されていた。とりわけ農民は、寄生階級のメシのタネだから、逃散するとか、徒党を組むとか、強訴するなどさせないように、徹底的に監視・圧迫されていた。徳川幕府的封建制は、世界でもまれに見る成功した専制政治であった。

 農民が町に出れば町人になるというが、気軽に町に出るなんてことができない。身分に縛られ、移転・離村は禁止されていた。職業選択の自由がなかった。そればかりか、自由に作物を栽培できない。貢租は五公五民の苛酷税で、夫役・助郷などで強制的に労役に就かされた。

 町人においても、たとえば天保の改革(1841~43)は、旗本に対する札差の貸付廃棄、御用金徴発、株仲間・問屋などのギルドが解散させられた。倹約の名目で、花火の値段まで制限し、店先で将棋するな、ちょっと上等な玩具はぜいたく品として粉砕、農村出稼ぎ者追い返しなど、微に入り細に入り人々の生活の隅々に介入した。これらは、土地による権力者としての幕府体制が、次第に発展してきた商業・札差の力を削ごうとしたのでもある。

 武士には「切り捨て御免」の野蛮な特権がある。しかも幕府体制は、農民・町人の生活が向上してはならないという支配哲学を貫徹した。「農は納」、百姓は「生かさぬよう、殺さぬよう」である。御用学者は、「少数のみ賢くあればよく、その他は愚がよろしい」、「権力者は権力をもって威を轟かせる」。徹底した権力を支えるのは、いよいよとなったら武威であり、農民一揆などの弾圧の苛斂誅求は掃いて捨てるほど記録がある。

 学者が研究して、史実を確認するのはよいが、たとえば農工商が職業的区分けに近かったなどの考え方は、極めて限定して使わないと、あわてものは、士農工商がなかった、つまり、封建社会はさほどの深刻なものではなかったという錯覚を引き起こしかねない。想像してみればよい。支配層が武威を背景に絶対的縦支配を貫徹しているとき、支配されている農工商内部で、そのような考え方が浸透しないわけがない。しかも、五人組で相互に監視させ、町方・農民を直接支配するお上の代行者が厳然と存在していた事実から、農工商の内部が暖かく穏やかであったなどと考えられるであろうか。

 歴史を研究する価値は、ドロイゼン(1808~1884)の「歴史研究にとって与えられたものは、過去のなかで、現在ここでまだ過ぎ去っていないものに他ならない」とか、クローチェ(1862~1952)の、「すべての真の歴史は現代の歴史である」という視点が大切である。

 たとえば、近代以降1世紀半過ぎたのに、いまだ「はっきり自分の意見を言わないことが、いかにも人生と世渡りにおいて価値がある」というような気風が世の中を支配している。これは、合理的機能的組織としての官僚制度が生み出したのではなく、徳川幕府において完成させられた封建制が、明治から敗戦までの専制的軍国国家において発展させられた成果! である。

 天声人語子は、士農工商が消えたことを研究が進んだと評価・感謝しているが、わたしはとても違和感を禁じえなかったので一筆書いた次第である。