週刊RO通信

取れもしない責任を取ると言う政治家

NO.1397

 この際できることならば、菅氏はじめ政治家のみなさんに、1日ゆっくり『荘子』を読んで、コロナ騒動下でコチコチになっている頭をほぐしてもらいたい。なぜなら、文章は比喩や寓話がふんだんに盛り込まれており、もちろんわたしは邦訳でしか読めないが、のびやかに心地よく流れるような文章である。読んで損はしない。心洗われるに違いない。

 政治家というお仕事が、よくもわるくも人気商売だということは重々承知している。だから、4都県の緊急事態宣言を2週間延長するについては、人知れず煩悶著しかったであろう。ぴしり、ずばりと政治家としての意思決定を伝えねばならぬとお考えになったであろうこともわかる。

 意思決定の表明を聞く立場からすると、たとえば菅氏が「わたしの責任で——」と発言されることに違和感を禁じえない。広辞苑でもちょっと見ていただければよろしいのだが、責任とは、政治・道徳・法律などの観点から非難されるべき責(せめ)・科(とが)の意味である。下手をすると、刑事責任・民事責任を問われるものである。

 そこでお聞きしたいのは、3月5日時点で感染者が438,744人・死亡者が8,211人おられることの責任を取るつもりなのだろうか。そうではないらしい。3月21日に緊急事態宣言を解除できないことを責・科というのであろうが、いかなる責任を想定しているのだろうか。刑事責任・民事責任の取り決めはないから、政治的・道義的責任になるが、従来の文脈で想像すると、言葉だけのお詫びなのか、今回は、職を辞すおつもりなのか。

 「俗、弁に惑う」(荘子)とある。とかく世間の人々は、他人の口先に乗せられて惑うものだという。人心安定・安心のために見得を切る、政治家的弁舌が有効だとお考えなのだろうか。宣言を発するのは1人の口先だから容易だが、自粛するのは圧倒的多数である。官僚人事のごとく人々の首根っこを押さえているわけでもない。息子すら他人である。舌先三寸で世間の人々が意のままになると思うのは素人政治家であり、政治家倫理の堕落である。

 福島原発事故の際、政府事故調査委員会を率いた畑村洋太郎氏は事故原因について、「ありえないこともありえる、見たいものしか見えない」と、荘子ばりの名言を発せられた。コロナウイルスについては、「見たいものも見えない、何が発生しても不思議ではない」ということにある。

 コロナウイルス感染防止対策において、わたしの常識では、とにかく科学的に見えるもの・ことを全面的に洗いざらい集めて分析し、経過を検証し、足らざる研究や対策を立ち上げていくことが第一だと考える。1人の政治家が責・科を担うことには全く意味がない。それどころか、相変わらず「私の責任」云々が臆面もなく登場するところに、真剣さの欠如を見る思いだ。

 戦前、「政治は科学である」と語った大臣がいた。いまこそ、この言葉がそのまま当てはまる。見えないウイルスではあるが、昨年から1年猶予の期間に、科学的知見は相当蓄積されているのであろう。わが国の感染症研究が遅れているにしても、新聞などで報道されないたくさんの科学的知見があると推測する。政治家において力が入らないのが、たかがインフルエンザであると考えているのであれば、それもまた1つの見識であるから、それを科学的に検証して、人々の前に公開してもらいたい。そうすれば、政治家諸氏が闇に隠れて不自由な思いをせず、堂々とネオンの町へ出没できる。なによりも人々の気持ちや暮らしがラクになる。

 『荘子』には、「疑始に聞けり」という、いい言葉がある。本当の道を知ろうと思うならば疑いをもつことから始めよという。西洋哲学と同じだ。「本当に本当か!」という真剣真摯な問いかけは、研究者だけではなく、だれもが大切にするべきである。日本人は、批判的思考(Critical Thinking)が不出来である。懐疑しないから批判的思考ができず、創造的思考ができない。

 昨年から、コロナウイルス騒動における政治家の発言を見ていると、とりわけその気持ちが強い。個人的利害関係に支配されて灰色の脳細胞の活躍を抑え込んでいるのではないか。「批判」の批は事実を突き合わせる。判は見分け定めるの意味である。虚心坦懐に批判的思考ができなければ、責・科を負うなどの大言壮語をする資格がないことを知ってもらいたい。