週刊RO通信

増殖する官僚政治ウイルス

NO.1396

 「私自身、仕事、プライベートでも、お会いする方がどういった方のご子息であるとかは、あまりお付き合いに関係ないと思っている」。(菅氏の長男が同席したのは)「私にとって大きな事実だったのかというと、必ずしもそうではないのではないかと思う」。(山田広報官)

 当時、放送行政を担当する総務省幹部として、業者の接待に応じているのだから、追及の質問にしれっと答えるのは、なかなか図太く傲慢にして気位が高い。すでに菅氏の覚えめでたいのであるし、菅氏長男は業者であるから、こちらからへいこらしませんよ、というわけだ。さすが高級官僚である。

 総務省にせよ、農水省にせよ、目下の問題の核心は、政・財・官の癒着にある。迷答弁、珍答弁の、それなりの面白さは横へ置いて、政・財・官の癒着が、何を意味するのかについて、民主政治の視点から考えてみたい。

 「わが国は民主政治か独裁政治か」と問えば、だれでも「民主政治に決まっているじゃないか」と答えるだろう。しかし、まことに遺憾千番ながら、実態は違うのである。国会を舞台にして展開中の騒動が物語っている。本当に民主政治であれば、官僚がだれと飲食しようが政治的意味はない。官僚が権限をもっているから騒動になる。独裁政治が顔を出している。

 官僚が権限をもつ権威者である。権威者とは、特定の人間が他者に対する政治的優越性を有し、これに政治的正義の独占権を与えることである。これ、独裁政治の1つの官僚政治である。主権在民たる民主政治において、主権者たる国民1人ひとりは、このような権威者を認めてはならない。

 権威者が存在しないのが民主政治なのであるから、ならば、東北新社であろうがアキタフーズであろうが、民間会社が自社持ちで誰かを接待するのは自由である。ところが、誰かが政治的権威者であって、政治的利害に関係するとなれば、ことの本質は民主政治ではないのである。つまり一部の連中が、勝手に政策を決定するとなれば、独裁政治になってしまう。首相1人が独裁政治をするのではない。わが政治は独裁政治システムみたいである。

 政府が民主的であれば、官吏も民主的になる。政府が官僚的であれば、官吏も官僚的になる。官僚政治は、国民を管理する対象としてしか見ない。首相記者会見は、主権在民の国民1人ひとりの疑問を解明するためにあるのではなく、権威者が何をなそうとしているかを知らしめるのが唯一の目的だ。

 だから、官吏として有能な山田広報官は、いかに記者質問をちょん切るかに腐心する。「さら問い」(記者の再質問)などは、あってはならない。首相のテレビ・インタビューで、アナウンサーが事前に通告した以外の質問をすれば、「ボスが怒っていた」と放送局に伝えるのも仕事である。

 安倍内閣以来、官房長官として辣腕を揮った菅氏の伝説ができているようだ。いわく、官僚(官吏)に対する人事的剛腕で、従わない官僚はどこかへ追っ払う。アメとムチで、官僚に対する政治家の優位性を確立した云々。たしかに、人事で首根っこを押さえられると、所詮勤め人であるから、高級官僚といえども、自由闊達に意見具申することができない。

 しかし、ものは考えようで、人事を握られている政治家と蜜月関係を構築するならば、わが身の昇進栄達は叶えられる。全体の奉仕者である、主権在民の民主主義であるから、国民のみなさまに奉仕するというような官吏的矜持を保つならば、国民を管理対象として見ている政治家とはそりが合わない。そんな書生論議はうっちゃって、政治家と同志的関係を結べばよろしい。頭脳明晰のたくさんいる仲間に競り勝てるという次第である。

 政治家と官僚が結託して、議会を牛耳れば、政治権力とそこから生ずる権威を自家薬籠中のものにできる。安倍・菅氏が、官僚の首根っこを押さえたつもりでいるとしても、そもそも、前首相といい、現首相といい、自分1人の能力など、なんぼのもんじゃい。安倍氏を醜聞から守り抜いたのは官僚だ。官僚一匹、理想を捨て名を捨てれば、官僚出世街道まっしぐらである。

 官僚政治下では、昔から腐敗が多く、しかも総力あげるから隠蔽もまた容易である。さらに、政・官が財界と結託すれば、まあ、恐いものなし、わが世の春。コロナでも五輪の荒波でも、官僚政治家どもは、湘南のサーファーのごとく、なんとでもなると確信しているのではあるまいか。