週刊RO通信

3つの規範、2つのタブー

NO.1395

 前号で、デモクラシーのリーダーは、3つの規範と2つのタブーを拳拳服膺して活動しなければならないと書いた。3つの規範は――① 自分が絶対的価値を代表していないという認識をもつ。② 自分の支配的行為をつねにオープンにする。③ 自分に対する批判を真剣・真摯に受け止める。2つのタブーは――a 大言壮語する。b 人々を扇動する。とりわけ「絶対的価値を代表していない」が、デモクラシーの根幹問題である。

 デモクラシーにあっても、権力は専制政治以上に強大化する。この数年を振り返れば、まず、議会が有効に機能していない。政府与党による議会政治の空疎化が常態化した。首相のスキャンダル隠しに官僚が挙って活動する。野党はスキャンダルばかり追及すると批判する向きがあるが、問題の核心は権力者が恣意的に政治をおこなっていることだ。つまり専制政治化である。

 俗に、大きな嘘はバレないという。モリ・カケ・サクラ的スキャンダルは低次元かつ幼稚な汚職である。首相職にある人が、そんな低次元の汚職をしないだろうという、庶民的牧歌的正直者の無意識の意識が黒を白と思い込む面も否定できない。また、日露交渉や拉致問題などは、首相がやりますというのだから、成算があるだろうと人々は信じる。まあ、結果は証明ずみだ。

 ここに権力というものの特徴がある。以前、大物が日露交渉をやるといえば、それはなんらかの前進を確信するからであった。しかし、小物は確信などなくても大っぴらに発言する。交渉相手は知らんぷりだが、国内で公言したことによって、期待の雰囲気が小物に対してはね返る。小物だから、相手と国内とは全く別物だということを忘れ、ますますその気になる。

 相手にはその気はないのだから、つれない態度をしてくれればお終いだが、専制政治に自信満々の長期政権だから、気晴らしなのか、漫遊なのか、本心は知る由もないが、付き合ってくれる。面談回数が増えて、脈ありと思い込むのは、わが国の近代化以来の悪癖と共通する。自分に都合よく判断してしまう。相手の土俵できちんとものごとを考える力が弱い。

 1931年満州事変から45年の太平洋戦争敗戦までの痛切な大失敗の総括ができていない。小物であっても地球儀を俯瞰するくらいはできる。しかし、小物は歴史の理解ができないから、外交的見識を養う能力がない。最高権力の地位にあることと、それを担えることは違う。超高性能のバイクの持主になることはできるが、乗りこなす力がないから暴走する。

 政治家に力があるから専制政治になるのではない。むしろ、政治力を持ち合わさない小物が、強大な権力の魔力にからめとられて専制政治を作り出す。権力なるものは、いかなる社会にあっても、極めつけ危険極まりないものだ。

 たとえば、政治家が「国家・国民のために」という言葉を振り回す。1人の市民からすれば、なるほど国家・国民は大きな存在である。つまり、政治家が自分の発言に権威をもたせる手品である。では、その国家・国民とは何なのか? 政治的ロマンチックであるかもしれぬが中味は不明だ。デモクラシーは個人が出発点である。国民1人ひとりに立てば、政治家のいう国家・国民とは国民1人ひとりの数ほど定義づけされることになる。

 所詮、1人の国民に過ぎない政治家が、みんなまとめて国家・国民呼ばわりして、自分の趣味をもって絶対的価値として押し出す。これが専制政治である。たまたま選挙で議員となり、たまたま多数党の領袖となり、首相になる。人々は1人の議員を選んだのであって、議員に全権委任したのではない。

 最大多数の最大幸福とは、政治によって最大の人々が幸福になるように、たくさんの選択肢のなかから、可能な限りのコンセンサスを作り出す意味である。そのために1人のリーダーを選ぶのではなく、多数の議員を選ぶ。議員たちが、かんかんがくがくの論議を通じてコンセンサス作りに精を出すのが議会制民主主義である。絶対的価値のようなものはあり得ない。

 デモクラシーとは、無数の意見表明から集約して、統一を生み出すための真剣・真摯な活動である。デモクラシー自体に完全に原理的なものはない。自由な意見表明とそれを集約するたゆみない努力を重ねることでしかない。政治における価値とは、自由な討論がつねに成り立つようにすることである。政治的権威とは、自由な討論が生み出すものである。