週刊RO通信

わきまえない政治家群像

NO.1394

 まったく、締まりのない話ばかりだ。コロナ騒動で五輪を開催できるかどうか。開催するにしても、健康安全を考えれば、技術的にも相当難しい。組織委員会のカシラが言わずもがなのギャフ発言で内外に囂々たる非難を巻き起こした。しかも、サルでもできる反省をせぬどころか、問題をなおさら拡大するような始末で、無駄な仕事を作り出した。森ギャフマンは20年前、支持率9%の首相であった。8年間の長期政権を記録した安倍氏も、いまの菅氏も、それぞれ持ち味は異なるが、果たして首相の器であろうか。

 企業社会でもそうだが、いちばん有能で、仕事ができる人がトップの座を射止めるのは、むしろ珍しい。とくに政治家の場合、いい政治をするというよりも、トップの座を射止め、権力の座に居座ることが目的化している。

 頭脳明晰でも病魔に襲われた人もいるし、仕事ができて部下の人気もあるのだが、なぜか水面下で足を引っ張られた人もいる。かつてお世話になった会社の社長に、「社長になるにはどうすればいいのでしょうか?」と尋ねたら、しばし絶句された。「結局、健康じゃないか」と言われるので、「ならば、当社には社長候補が有り余っていますね」と言って、2人で大笑いした。

 勤め人たるもの、ひそかに志を確立するならば社長をめざすだろう。政治家ならば、首相をめざすであろう。実際、あちらこちらで政治家の怪気炎を聞く。しかし、これがまた、「国家国民のために命を賭してがんばります」と同様に、政治家は大志を抱くというよりも、中身がまるで伴わない。傍目には、軽輩が調子よく重たい言葉を語るから、シャボン玉みたいに消える。

 代々政治家家系の若者がさっそうと登場し、瞬く間にメディアの首相人気調査で高い支持を得る。それ自体、いかにも軽薄に感じられて、かかる記事が新聞紙面を占めていると、損した気分がする。トイレの雑巾がけ、使い走りの、丁稚奉公せよとは言わぬまでも、極めて非科学的な政治家世界で頂点をめざすのであれば、それなりに本気の心構えを聞きたい。

 たまたま大当たりして、化けるかもしれないが、ドラマと現実世界をごちゃまぜしたくはない。銀幕スターではあるまいし、ブロマイド的人気をもって首相をめざしてもらっては困る。思い出すべきだ。かの15年にわたった戦争において、戦勝国の裁判で処分された人はあったが、国の進路を誤らせ、人々を塗炭の苦しみに追い込んだ責任をとった事例は極めて少ない。いや、実のところ、戦争責任などは、自分が命を絶った程度では償い得ない。

 政治家たることは、いわば、責任を取ろうにも取られないことに対する仕事である。昨今、歴史を直視しないことをもって政治家でございますという政治家が極めて多い。失敗した場合、償い得ない歴史を作る仕事が政治であり、「政治家たることは恐ろしい」と想像できないような人物は政治家の道に迷い込んではならない。かかる手合いが首相をめざすなどと口走るのは、かかる手合いのなれの果てが首相の座に座っているからであろう。

 人気一気下降の菅氏について、原稿棒読み、国民を見ていないから人々の痛みを感じないという批判が出ている。漫談ではないのだから、本当に大事なものは原稿を丁寧に読むべきだ。国民を見ていないのではなく、見ているのである。ただし、目的が違う。国民をいかにうまく操縦するかというのが本音なのである。それが永田町遊泳術と、官僚人事操作の目的だ。

 政治家は広告代理店的オペレーターに堕している。国民視線に立つことは、人々を甘い言葉で翻弄するのではない。デモクラシーにおけるリーダーとはいかにあるべきか。寝ても覚めても、これを悩み続けねばならない。

 デモクラシーのリーダーは、3つの規範と2つのタブーを拳拳服膺し、実践しなければならない。3つの規範は――① 自分が絶対的価値を代表していないという認識をもつ。② 自分の支配的行為をつねにオープンにする。③ 自分に対する批判を真剣・真摯に受け止める。2つのタブーは――a 大言壮語する。b 人々を扇動する。

 戦後の政権をほとんど担ってきた自民党政治が、いま、到達したのは、歴史の重みを無視することと、上記の規範・タブーを弁えない連中が自民党を牛耳っている。その旗を振ったのが安倍氏である。非科学的政治を徘徊させないために、あえて、3つの規範と2つのタブーを指摘しておく。