週刊RO通信

組合の非元気は時間論不在にあり

No.1207

 日本労働組合総連合会(連合)が発足したのは、1989年11月21日である。再来年が30周年だ。4つあったナショナルセンターがさまざまな組織事情を乗り越えて1つにまとまろうという悲願を達成したはずであった。

 1つにまとまればすべてよろしいのではない。新しい港に向かって出発しただけである。めざす港はいずこであるか? もちろん働く人が存在する限り労働運動もまたゴーイング・コンサーンをめざさねばならない。

 だからめざす港は当面の事業の在り方を規定する事柄であり、現在の活動をする人々は、過去・現在から未来へ何を伝達していくか!

「人間の偉大は自己目的ではなく、橋であることだ」(ニーチェ)という言葉を援用すれば、各組合は自組織維持のみに心奪われるのではなく、社会全体のあるべき姿を求める。自分たちが受けたバトンを、次世代へどのように手渡すかという気持ちを常に大切にしたい。歴史を建設するのだ。

労働運動は第一に大衆運動である。すなわち連合運動が盛んであるか、そうでないかは、大衆運動がいきいきしているかどうかにある。別に、街頭を走り回れというのではない。組合員が連合を意識しているかどうかである。

2011年3月11日に発生した東日本大震災以降、連合の現地支援活動は立派なものであった。当時、東北3県で連日、連合傘下組合員数百人が支援活動に励んだ。「何かしたい」と思い詰めた組合員が多かった。

自分と同じ思いを抱いた仲間と共同活動するとき、1人の思いが大きな力として現れる。たとえば1,000人の組織で、自分は1万円カンパしたとして、「合計1,000万円です」と聞けば小さな力の大きさを感得する。

1人ひとりの小さな力の総和が生み出す力を組織力という。組織は見えない。実在するのは個人である。つまり、組織は、個人の力が組織によって大きく拡大して登場したとき、構成員に認識される(=連帯)のである。

連合の力とは何か? たまたま役員の方々の個人的能力が1人ひとりの組合員より卓抜していても、失礼ながら大したものではない。仮に政府辺りの高級官僚が称賛してくれたとしても、組織力ではない。

組合役員は、昔と違って、まさか「アカ」呼ばわりはされないだろう。大方は普通の組合員とは異なって、使用者側から丁寧な対応を受けるはずだ。普通の組合員とは異なる対応だという認識を常時携帯! せねばならない。

連合の力は産業別組合の力の総和である。産別の力は個別組合の力の総和である。個別組合の力は組合員の力の総和である。これを失念して、号令を掛ければよろしいと考えるとき、組合組織も運動も形骸化し空洞化する。

少し前、連合は「長時間労働の是正に罰則付き時間外労働規制を導入し労基法70年の歴史の中での大改革ができた」とした。そうだろうか。戦後、政財界が労働基準法を岩盤として切り崩そうとしてきたことを忘れたか?

 この事例は、政財労の「官僚」的玉虫色決着の典型である。政財界が切り崩そうとしているのは、「時間でなく成果に対して賃金を支払う」という名目で残業代をけちるだけではない。本丸は基準法と組合運動の骨抜きだ。

 そもそもサービス(不払い)残業が蔓延し、パワハラが後を絶たないのは組合員の力が個別のままで孤立しているからだ。組合員が組合として団体組織力にまとめ上げられていないからである。これが動かすべき山だ。

 長時間労働反対の理由として「健康」問題程度しか主張できないところに、労働時間問題の本質が潜んでいる。「健康を害しないように」というような主張は的外れである。それでは労働者は奴隷と本質的に変わらない。

 経済学では、「余暇こそが財」である。「余暇=財」を失うのが労働である。この理論を連合幹部諸氏は十分に認識しておられるはずだ。自分の財を削って労働しているのだから残業で稼ぐなんて理屈はナンセンスである。

 まして健康を問題にせねばならないなど思想的には末期症状である。余暇が1時間増えるのは1時間分の賃金を手にするのと同じだ、と考えれば残業の実入りなど間尺に合わない取引である。人生を削っているのだから——

 1時間の賃金が1時間の余暇より価値があるとみなしている限り、わが国の長時間労働は改善されない。組合員諸氏が自身の人生の価値を認識する大衆的取り組みが必要だ。「human rights」(人間の尊厳)が核心である。