週刊RO通信

なぜ、トランプ的思考が居座るか

NO.1390

 もう50年余以前になるが、先輩が何かの拍子に、「たとえ話のうまい人は要注意だ」といわれた。ここには2つ意味がある。たとえ話そのものが妥当であるか。たとえ話のうまい人が人間として信頼できるかどうか。昨今、先輩の言葉の重みを痛感することが多い。

 たとえ話の効用は、自分が主張したい内容を、いかにわかりやすく説明するかにある。これがレトリックである。欧州では、会話や文章で大切なことは、ワード・グラマー・レトリックの三本柱で、とりわけレトリックを重視する。レトリックを日本的に修辞法と訳すと、もうひとつしっくりこない。

 やや抽象的になるが、レトリックは説得力としたほうがよろしい。自分の気持ちを伝えるために、べらべらしゃべるよりも、思いを込めて沈黙するほうが説得力をもつことだってある。そして、説得力こそがコミュニケーションというものの核心ではなかろうか。さて――

 アメリカでは、大統領トランプ氏が再び弾劾訴追を食らっている。成立するかしないかに関心が集まっているが、仮に、トランプ氏の弾劾が成立しても、それだけでは、氏が4年間にわたって掻き回したアメリカ的デモクラシーの惨状は、なにも修復しない。トランプ氏は狂言回しに過ぎないからだ。

 ヒトラー(1889~1945)は――オーストリア税官吏の息子で、絵描きになり損ねた小男が、ナチ党を率いて、世界大恐慌の混乱に乗じ、ドイツ人の支持を獲得し、財界とも手を握り、1939年第二次世界大戦を引き起こした。しかし、野望を果たせず45年に自殺した。

 希代の詐欺師ペテン師が、ドイツ人の絶大な支持を獲得して権力の頂点に立った。しかし、その現象を事実として理解しても、賢明にして堅実、精緻にして正確さを貴ぶ優秀なドイツ人が、なにゆえヒトラーごときの弁舌に完膚なきまでに欺かれ、行動したのか? 依然として不明である。

 1月8日、ツィッター社がトランプ氏のアカウントを永久停止した。ネオ・ヒトラー的トランプ氏の最大の武器を取り上げた。物理的にトランプ氏の言論封殺をおこなった。

 メルケル氏は、「言論の自由は根本的に重要な基本的人権であるから、これが制限されるのは、法律を通じて、また、立法者が決めた枠組みのなかであるべきで、ソーシャルメディア各社の経営陣の決定によってではない」とコメントした。「(しかし、現実の)嘘や暴力の扇動は非常に問題であって、今回のSNS各社の対応は支持する」との見解も付帯した。

 言論の自由を守るNGO、米国自由人権協会(ACLU)も、「数十億人の発言に不可欠となったプラットホーム・ユーザーを排除する絶対権力を(SNS各社が)行使することは懸念である」と声明した。メルケル氏とACLUの見解は、いずれも言論の自由にかんする法律論が基本である。

 言論の自由は、政治的意思決定にかんするのだから、軽々しく規制してはならない。もともと、言論の自由は対権力関係において保障されている。権力に対する反対が、短絡的に暴力に発展しないためにも、言論を公開する自由は大きいほうがよろしい。「話せばわかる」から、デモクラシーである。

 また、人は過ちを冒すものであるが、言論の自由が認められている社会においては、誤りは是正される。これも「話せばわかる」からである。ミルトン(1604~1674)は、「真理と虚偽とを組打ちさせよ」と主張した。あたかも自由市場において商品の優劣が決定されるように、不良言論は駆逐されるという考え方である。これは、いささか牧歌的すぎるだろうか。

 トランプ氏は最大の権力者である。しかし、話せばわかるために弁論せず、群衆を自分の私兵として教唆・煽動した。その暴力対象にされたのが、国民を代表する議会であった。議会を破壊する行為は、デモクラシーを破壊する象徴的行為である。かつて、ナチ党も議会に火をつけて焼いた。

 なにゆえに、嘘とはったり、真実を無視して暴走するトランプ氏の発言が、アメリカ人の共感や支持を得たのか? デモクラシーの危機は疑いない。

 ナチの強制収容所から生還したフランクル(1905~1997)は、「人間には、まともとそうでないのとがいるが、まともな人間は少数派である」と語った。然り、少数派であっても、まともであらねばならない。