週刊RO通信

この1年 くだらない政治屋の芝居

NO.1387

 2019年は、カルロス・ゴーン主演によるドラマチックな日本脱出劇で幕を閉じた。ミーハー的表現をすれば、ハリウッド映画並み、いやそれ以上の面白さであった。今年は、桜吹雪ならぬ貧相な桜を見る会夕食会の、議員と秘書をめぐる下手な芝居で幕を閉じる模様だ。

 舞台は同じ日本国で、それぞれ法律に挑戦したのであるが、かたや活劇モード、こちら心理劇モードではあるものの、中身が薄っぺらで、検察権力を欺いたというには粗末すぎてつまらない。法律を破るにしても、脚本の構想力・演出のダイナミックさ・主演の演技力が大きく異なる。

 『春秋左氏伝』に諺が出ている。いわく「唇歯輔車」——輔車相依り、唇亡びて歯寒し。車の添え木がなければ車は役立たず、唇が破れると歯が寒い。相互が分かちがたく助け合い、一方が亡びれば他方も危うくなるという意味である。議員と秘書の関係にもよく例えられる。

 あるいは、操り人形遣いと人形の関係とも表現できる。卓抜した人形遣いは、「人形遣いは人形の一部であり、人形もまた人形遣いの一部である」という。両者分かちがたく一心同体のようであって、はじめて所期の目的を達成できる。首相になるほどだから、議員・秘書は阿吽の呼吸でもあったろう。

 地元事務所へは、多忙を極めていたので1~2回しか訪れていないという。事務所へ出向かねば何も分からないというのも極めて不自然。電話もメールもある。秘書が、議員が国会で奇妙な答弁をしているのを知らなかったはずがない。超ベテラン秘書である。議員の苦境を救おうと思わないだろうか。

 つまりは、議員と秘書はすべて綿密に打ち合わせた上でここまで引っ張った。路上駐車をすれば罰金を食らうが、罰金を食らう確率と駐車料金を考えれば、摘発されないことに賭けると言った人がいたが、おそらく、ばれてもともと程度に考えていたのであろう。首相どころか下衆な根性である。

 官僚の人事におさおさ怠りなく睨みを利かせる手はずを着々進めてきた。黒川弘務氏を検事総長に据える作戦は、思わぬ事件でしくじったが、首相としての権力を私物化する戦略を在任中に着々進めていたのだから、相当の自信をもっていたであろうことも予想がつく。

 12月25日の衆参議運委員会での安倍的答弁をうけて、読売(12/26)社説は「安倍氏答弁 国会軽視が重大な事態招いた」と見出しを掲げた。「不誠実な答弁でやりすごすという姿勢が重い結果を招いた」と厳しい書き出しで、不誠実答弁・軽率な発言・挑発的答弁の3点セットを批判した。

 ところが結論は、「政治資金収支報告書不記載が、国政全般を揺るがすような問題とは言えない」と締めくくる。重大な事態とは国政上の重大な事態ではないのか! 首相たるものが「不誠実・軽率・挑発的」発言をすることが国政を揺るがすような問題ではないのか! 

 安倍・自民党提灯持ちたる読売新聞の面目躍如、竜頭蛇尾の典型、羊頭狗肉の見本というべき論説である。これではジャーナリズムとしての立ち位置を全面否定しているとしか表現のしようがない。すべてのメディアが読売同様の宣伝をすれば、政治は詐偽・ペテンのやくざ世界になるではないか。

 安倍の弁明とは、恥を恥と認識せず、嘘の上塗り厚化粧以外のなにごとでもない。安倍氏は「結果として事実に反するものがあった。大変じくじたるものがある」と語ったが、忸怩(じくじ)の意味をわからずしゃべっている。忸怩とは「恥じ入る」のであり、穴があったら入りたいことだ。

 ひとさまの前に出られないのである。にもかかわらず、相も変わらず得意顔して、委員会後には「説明責任を果たすことができた」と語った。まことに言葉の意味を弁えない人物である。生を享けて66年の安倍氏は、いったい何を学んできたのか! 精神のない操り人形を見る思いがする。

 後味悪い料理の後は、お口直しが必要だ。誰でもご存知の「ソクラテスの弁明」を思い出す。陰謀にはめられていることは承知の上で、ソクラテスは、知をなによりも愛する人として、堂々たる弁明をおこなった。そして、真実を貫き通すために、死をも恐れなかった。

 コロナウイルス騒動は来年も続く。同じく、遺憾千番の「桜」も続く。いや、政治から嘘つきを放逐するまで続けねばならない。