週刊RO通信

スペイン風邪の中の作家像

NO.1384

 COVID-19対策は、いかにも精彩を欠く。どことなく神頼み風が感じられるが、当地鎮守の森の神宮も、恒例の秋祭り中止を余儀なくされた次第で、神さまもお手上げとあっては、頼むわけにはいかない。こちらは、GoToはトラブルだと主張してきたが、応援団のY新聞までが見直しに躊躇するな、感染抑止が経済回復の近道だと社説に書くのだから、あながち憎まれ口のための憎まれ口でなかったことが証明された。

 今回は、100年前のスペイン風邪大流行の際、まだ、あまり売れていない作家の地味なエピソードを紹介して、活力の自家発電の燃料にしたい。作家・広津和郎(1891~1968)『同時代の作家たち』から引用する。

 広津さんは、宇野浩二(1891~1961)と大親友である。広津さんが少し先行したが、いずれもまだ十分に作家としての基盤が固まっていなかった。1919年の年明け、三保の松原の旅館に投宿している宇野から誘いの葉書が届いた。以前2人が翻訳の仕事をした場所でお気に入りだった。

 広津さんは『中央公論』2月号に掲載する小説のペンが進まず呻吟していたが、締め切り日の前夜に原稿用紙持参で出かけた。到着したのは未明で人力車がおらず、4キロ余を歩いて旅館へ向かった。凍えそうな寒さであった。宿に到着したもののそのまま寝込んでしまう。「その年猖獗(しょうけつ)を極めていたスペイン風邪にとりつかれたわけなのである」

 小説を書くどころではない。40度超の高熱に死ぬ思いである。仕方なく、『中央公論』主幹・滝田樗蔭(1882~1925)に当てて事情を知らせた。折り返し、「流感ハ本社ノ責任ニアラズ」と電報が飛んできた。締め切りが迫っているのに旅行に遁走したと立腹しているようだ。そればかりか、流感も仮病に違いないと思い込んでいるらしい、と広津さんは思った。

 激烈な電報が1日に何通も届く。困った広津さんは、宇野に頼んで東京へ出向き真実を伝えてもらうことにした。早速、宇野は『中央公論』に出向いて首尾よく目的を達成した。同夜、宇野は作家仲間の江口渙(1887~1975)宅へ1泊した。その後がいけない。江口が流感にかかった。広津の風邪を宇野が俺のところへ運んできたと大憤慨する。広津さんは肺炎になり血を吐きながら苦しみ抜いたが8日間で回復、江口は数か月患ったそうである。

 宇野は東京へ行く前から38度の発熱だったが、どこ吹く風で平然としており、スペイン風邪の配達をしたとしても、ついに1日も寝付いたことがなかった。広津さんは、「宇野は不死身なのである」と感嘆した。

 風邪騒動の直後、広津さんの尽力で、売れなかった宇野の原稿「蔵の中」が『文章世界』に採用された。広津さんに同道されて、宇野は原稿料を受け取った。生活費の心積もりをしているらしい宇野の横顔を眺めつつ、広津さんは考える。――長い間の日照りで乾ききった地面が、パラパラ雨で潤うはずがない――「大丈夫、これで作家になれるんだ」と励ましてあげようと思いつつ、広津さんの口からは「おい、宇野、腹が減った。飯を食わせろよ」という言葉が出た。その夜、原稿料の1/3ほど使わせてしまったそうだ。

 不死身の宇野は一時期神経を病んだ。広津さんはつねに付き添っていた。広津さんは、「宇野は一時狂うことがあってもフィーブル(feeble)じゃない。太くも逞しくもないけれど、蔓草のような強靭さをもっている」と断言した。その通りであった。2人は、表面的にはもりもりポジティブでないが、強靭な精神の持ち主だった。タフで着実な作家生涯を送った。

 それから30年後の49年8月17日、東北本線松川駅近くでの列車転覆事件、いわゆる「松川事件」が発生した。犯人にでっちあげられた20人の救援活動で2人は全国を走り回って大活躍する。地裁・高裁での有罪を覆し、63年最高裁でついに逆転全員無罪を勝ち取った。

 ものぐさを自称する広津さんらしい名言を、いま、どことなく退屈で面白くもない折から、しみじみ噛みしめてみたい。――「安価なる生の肯定」は打破、「安価なる生の躍動」も打破、「自分を疑え、疑え、何処までも疑え、疑って疑って疑いぬいて、そして後、信じろ」――

 ただ考えるともなく考えにふけっているのが好きだとも語った。広津さんの頭には旅をしなくても、無限の世界が広がっていたのであろう。