週刊RO通信

「考える葦」として考える

NO.1378

 コロナ騒動下であるが、戦争を体験せず今日まで生きてきた。かつては交通戦争があり、いまも受験戦争があり、企業競争、生存競争——生きることは厳しいけれども、内紛・内乱、戦争の報道を見るにつけ、戦火に翻弄されるようなことにしてはならないとつくづく思う。

 コロナとの戦争に打ち勝つというような政治家の発言は、戦争を知らない世代の、問題に対する本気度不足の軽率発言の類だ。実際、コロナ戦争なるものの戦略・戦術の采配が鮮やかとはとても言えない。新首相に言われるまでもなく、自助・共助=自粛が最大の作戦になっている。

 戦争なるものは、いかに愛国心旺盛な人々ばかりだとしても、個人的次元でおこなわれるのではない。戦争は国家間の武力紛争であり、国家の意思決定がなされるのは、政治の世界においてである。しかも、そのリーダーシップを執るのは、おそらく極めて少数人士の意思であろう。

 戦後の75年間の平和が維持されたのは、まことに幸運だった。いま、戦争を知らない世代の政治家が頭の中で何を考えているのか、大いに気がかりだ。暴言を吐く連中が少数派であることを期待する。平和状態は決して盤石なものでない。時代の動きを慎重に注視しなければならない。

 75年間の平和は、さまざまな要素が絡んだ結果である。昨今、護憲派といえば思考の柔軟性を欠いた存在のように揶揄されることが少なくない。しかし、戦後の護憲運動、安保改定反対闘争、原水爆禁止運動、ベトナム反戦運動などのエネルギーは、まちがいなく平和維持に貢献した。

 政治は権力闘争である。権力を持つ者は権力を手放すことを恐れるから、ますます権力の全能性を求める傾向が強い。権力支配層が権力集中自体を目的化しやすいのは古今東西の歴史が教えている。政治が活力を失い、権力維持が危なくなると戦争への道が開きやすいのも歴史的教訓である。

 権力者=政治家は、人々が日々の生活を満足して愉快に暮らせるように、社会というオーケストラの指揮をする仕事である。百人百様の個性を持つ人々の力量を引き出し、ハーモニーを創造するのだから、指揮者の仕事は非常に難しい。なおかつ、指揮者たろうとする権力者は極めて少ない。

 ハーモニーは上意下達からは生まれないが、小粒の人間が権力の座に就くと大方は権力によって他者を統治したくなる。本来、小粒の人間が権力を掌握してはならないのであるが、ドングリコロコロの中から、たまたまトップに辿り着くから、のぼせ上って権力の誘惑に取り込まれてしまう。

 人は誰でも自分の生活に立脚している。日々の生活に満足している人が、わざわざ生命を賭けて破壊や殺戮に出かけたいと考えるわけがない。戦争を賛美し期待するような好戦家は、立脚点としての生活に抑えがたい不満を持っている。好戦家が増える社会は、すでに病んでいる。

 生活に不満を持つ人々が多いような社会において、小粒の権力者が統治のために権力を揮えば揮うほど世の中は乱れやすい。護憲派の活動が目立った時代、護憲派が全面的勝利を手にしたことはないが、権力者の暴走を抑制させた。そして、70~80年代が戦後日本のもっとも寛大な社会であった。

 しかし、90年代初頭にバブルが崩壊し、阪神淡路大震災、東日本大震災を筆頭として大災害が続き、経済は一貫して低迷、いまや円安と日銀・GPIFの買い支えで株価が維持されているものの、人々の生活からゆとりが消えて、沈滞ムードが漂っている。さらにコロナ騒動が加わった。

 90年代から、理想無き時代とか、脱イデオロギー時代といわれ、政治面では、国家主義・国粋主義的傾向が強まった。新しい地平を開拓するべきなのに、その主体的力量と条件が整わないから、過去の栄光を引っぱり出す。復古調の気風が台頭する時代は、国民力が下降中である。

 コロナ騒動以前から、わが社会の沈滞は著しい。国や、組織の権威による統治的発想で号令をかけても沈滞を破ることはできない。上意下達的指向が強まるほど、個人の内からの行動欲求は反比例的に減退する。知性の象徴ともいうべき日本学術会議に対する権力の暴挙は、権力者たちの知性の欠落を意味する。歴史認識、時代認識を欠いた権力者が君臨する国家は、いつか来た道の景色によく似ている。