週刊RO通信

日本には「民主主義の危機」がない?

NO.1377

 フランス革命後に生まれた、A・トクヴィル(1805~1859)が、建国半世紀余のアメリカを旅行して著した『アメリカの民主政治』(1835)は、いまも輝きを失わない。貴重な民主政治のテキストである。

 彼は、アメリカの人々の「地位の平等ほど、わたしの眼を引いたものはなかった」と感動し、「欧州からニューイングランドに到着した150人は、神の面前で自治をおこない、計画を完遂する目的で政治的社会の団結を結成した、誇り高き人々である」と記した。

 人間社会の地位の平等化は神の摂理である。平等の漸進的発達こそが人類史であると確信するから、民主主義を中止させようとするのは、神に対する闘いであると言い切った。各人は、同胞に協力することで同胞の支持を獲得する、つまり、「個と連帯」こそがトクヴィル流の民主主義の核心である。

 時代が下って、H・アーレント(1906~1975)は、次のように述べた。建国以来のアメリカの革命の成功は、「抑圧する支配」から多数者を解放し、市民の生命・自由・財産権の「消極的な保護」を制度化した。一方、政治的に積極的に、市民が参加するような「精神的自由」を保障した、と。

 革命というものは、体制への反抗や破壊が思い浮かぶ。事実、フランス革命はじめ革命には暴力と破壊がつきものであった。アーレントが気づいたのは、――暴力と破壊は革命の一面であるが、それが革命の主たる役割ならば行き着く先は惨憺たる荒野でしかない。アメリカ建国の人々は、それには素早く別れを告げて、建設的事業を展開した。公共領域で市民が討論と決定に参加するような、永続的共和国を創り出そうとした――と理解する。

 鍵は、自由な市民の政治参加である。だから、その事業は永久に続く革命である。逆にいえば、自由な市民の政治参加が続くかぎり、アメリカは建国以来の革命精神が維持される。民主主義はつねに活発に育つというわけだ。

 しかし、いまのアメリカはFBIが、国内的テロの脅威があると指摘する。トランプ氏が登場して、かき回しているからだろうか。たしかに、それもあるが、トランプ氏の登場が原因ではなく、(歴史的な)結果だと考えれば、異なる景色が見えてくる。

 「アメリカ・ファースト」はトランプ流表現であるが、第二次世界大戦後の75年間、「アメリカが特別の国」だと考えなかった大統領は1人もいない。世界中が、「パックス・アメリカーナ」とか、それに比較すると格落ちするが「世界の警察官」という表現を極めて必然的、自然的に使ってきた。

 しかし、核兵器の拡散によって、時の経緯によって、こんなものは幻想にすぎないことを、リアルな頭を持つ人はとっくにわかっている。核兵器大国のアメリカといえども、群小国ではなく、中国やロシアを本気で敵として想定した場合、警察官していられないし、ましてパックス・アメリカーナなどと豪語できない事態であるから、対中国貿易戦争を吹っかけている。

 「駅馬車は西へ」の古き良き時代はとっくに終わった。国内の矛盾、直截的に言えば、国富というパイの分配が不都合を拡大し、人々の参加による建設的政治革命が行き詰ったところに、ホラと嘘と幻想をばらまくセールスマンが現れた。20世紀後半、貧困層の増加が危険水域を迎え、暴動から内乱の危機があると主張する経済学者が登場していた。トランプ氏の当選はたまたまであるとしても、不平不満のマグマがなせる結果に見える。

 いまは、その結果が原因となって、大統領選挙自体がアメリカのさらなる危機を招いている。希代の自己中心主義者たるトランプ氏が、不平不満のマグマに働きかけるほどアメリカは分断される。選挙に勝とうが負けようが、トランプ氏にはアメリカを操縦する能力はない。人々の参加こそがアメリカ的民主主義の最大価値であり、国力の源だという理解もなかろう。

 昨今、アメリカも日本も、あちらもこちらも、大衆を組織するテクニックさえ身に着けていればすべてが可能になると過信する政治屋が多すぎる。そのような連中が台頭する理由は、その一方に、大きな失意を抱え、無力感に陥ったかに見える人々がいるからだろう。たかが! 弔意を表明するかしないかみたいなことで悩んで、「忖度」を云々するような日本を見ていると、民主主義の危機などない。なぜなら、それは民主主義ではないからだ!