週刊RO通信

期待だけで果実は収穫できない

NO.1374

 政治というものが、わたしの目の前に登場したのは57年前である。なぜ記憶しているか――総務課主催の新入社員研修会で、身上書を書かされた。たくさん記入欄があったが、記憶しているのは2つである。

 まず、「尊敬する人物」に戸惑った。思い浮かんだのは母親だが、いかにも幼稚と思い、たまたま浮かんだので「ガンジー」と書いた。理由は、非暴力抵抗を貫いたこととした。ただし、格別の思い入れがあったのではない。

 次は「政党支持」で、これも考えていなかった。「なし」と書くのは沽券に関わると思い、「自民党」と書いた。理由は、野党がだらしないからとした。政党支持が自分の関心外だったので、未熟さがバレたような気がした。100人ほどの同期(大卒・高卒)の誰もが素知らぬ顔をして記入していた。

 あとで仲良しの大卒氏に聞かれたので事実を告げると、「うまい手だ」と感心されて調子が狂った。学生運動をやっていた氏は「なし」と書いたが、たぶんバレているだろうとぼやく。うむ、思想調査だったのか。

 シャクに触った。ならば「社会党」と書いてやればよかった。野党がだらしないとは思っていたが、自民党支持は全然考えたことがなかった。思想調査よりも自分の無知・未熟さに腹が立った。

 18歳まで暮らした故郷は保守王国だった。母親はわたしにも、一度も選挙で投票した人の名前を明かさなかった。小さな町には、明治以前からの旧家がいくつかあって、町長はそのいずれかであり、選挙といえば、それらの床の間から指示が出されていた。

 母親は強烈にそのような雰囲気を嫌っていたから、一切口外しなかったのであろう。わたしが中学に入ったときからまったく縁者のいない町へ移った。あとで思うと、母親が以前よりおおいに明るくなった。そんなことも忘れていた。まったく自分ファーストであった。

 入社して3年、わたしは組合支部役員として8年間活動した。国政・地方政治ともども野党議員とのお付き合いが増えた。当時は、組合員の野党支持は昨今の自民党支持よりも高かった。率先して選挙活動に参加する組合員も多く、選挙は大いに盛り上がった。

 次いで本部役員になった。1970年代後半には、本部役員として組合独自の「政治活動指針」を制作した。組合の政治活動といえば選挙活動がほとんどである。単組レベルで政党支持問題以外に、政治を正面から研究するような動きはほとんどなかったから、マスコミを通じて発表すれば、組合運動の前進に役立つのではないかと考えた。しかし、新聞記者氏が記事にするだけの興味を引くことができなかった。

 82年に組合を辞めて、以来組合応援団の1人として、また、市民の立場からの政治を考えてきた。90年代の初めに、親交を深めていた某全国紙の論説副委員長に「そんなに政治的発言をするのだったら、区議会議員にでもなればいいじゃないか」と言われた。

 それも一理あるが、わたしは全ての市民が広い意味の政治家だと思う。政治的発言は、政治家を職業にする人だけのものではない。新聞が世論を作るのではない。政治的見識を発信するのは、社会を作っている1市民としての常識である。政治をするのが政治家で、それを監視するのが新聞で、市民はそれを観客席から眺めているという構図では政治は発展しない。

 観客民主主義ではいかんという主張は、1970年代においてもかなり盛んであった。しかし、組合でいえば「政治活動=選挙活動」の段階に留まっている。主権在民において、政治的見識は、市民1人ひとりのものであるから、選挙活動だけではなく、もっと日常活動において、市民としての組合員が集って政治的見識を話し合う機会がほしい。

 初めから野党候補を担ぐ話になるから、(組合員は)もう一つ面白くない。「わたしの意見を聞いてくれ」という思いを持つ人は少なくないはずだ。農業の要は、畑である。種を撒くにせよ、水をやるにせよ、まずは畑を耕さねばならない。日本的政治の停滞は、市民1人ひとりが発言するための作業を十分にやっていないことに起因する。畑を耕す、政治的リテラシーが育つ、かくして野党も育つのである。