論 考

寛容か、不寛容か――の重たい意味

 ちょっと考えるヒントがあった。

 アメリカの研究者によると、建国以来歴史的に、マイノリティの権利が拡大する動きが出ると、不寛容(意識)を助長するという。

 組織行動の理論では、何かを変革しようとすると、それを推進する力と妨害する力が摩擦・葛藤を起こす。これは常識である。

 たとえば組織内で何かを変更する場合、(小さなことであっても)提案者は、変革に対する推進勢力と妨害勢力をよくよく分析して、押し潰されないように工夫する。

 小さいか大きいかは、これまた人それぞれの考えがあるから、合理的なんだからいいじゃないかとばかり、安直に提案すると予想せざる反発を食らったりする。物理学では、作用・反作用の法則があるが、人間社会においても、ほとんど同じ解釈が成り立つ(とわたしはつねづね考えている)。

 マイノリティの権利拡大=作用に対して、反作用=不寛容(意識)が起こると対置するのは至極当然なはずだが、なぜか、わたしは反作用=不寛容という理屈にいままで気づかなかった。

 「寛容」と「不寛容」という言葉に焦点が当たったのは、トランプ大統領の登場からである。トランプ氏は従来、歴史的必然だと思われていたマイノリティの権利拡大という課題に対して、ただ受動的に対応するのではなく、マイノリティの権利拡大自体に反対する方向性を打ち出したみたいである。

 寛容が価値観ではなく、不寛容を価値観とする動きを発生させた。これは、奴隷解放以来、寛容を押し立てていたはずの、共和党が反対へ転換したことを意味している。

 目下、バイデン氏は安定的にトランプ氏をリードしているが、バイデン氏が勝利したとしても、トランプ氏が不寛容に転換させた共和党とそれの周辺が直ちに再度の転換を果たすとは限らない。

 アメリカの政治的・社会的動向は目が離せない。