論 考

政府も都もねじが緩んでいないか

 「人を見ればウイルスと思え」という気風になっては世間が暗くなる。いわゆる自粛は道徳的規範であって、行政や他人が脇から介入干渉するものではない。とはいうものの、吾にいささかの正義ありと思う気持ちを抑えられず、それを具体的な形にしたい人がゼロにはならない。

 誰かが今度はこんな解釈を生み出した。自粛とは、キリスト教的に考えれば、原罪に通ずる。すなわち、「自分が感染源であると自覚してふるまう」というわけだ。これなら他人のせいにして、意地悪しなくなるだろうか。

 こういう解釈、理屈の展開は言葉遊びとしてはそれなりに面白くないわけではないのだが、もし、このような考え方が当然という社会的気風になったら、ヒトヒト感染を防御する上では効果的であるとしても、人々の気分はまことにじめじめとして隠々滅々になるかもしれない。

 昨日の感染は東京では最高の243人で、首都圏4都知事が話し合ったが、めぼしい対策も打てず、アビガンの明確な有効性が見られないという研究報告もあった。片や、イベントの緩和が始まって、なんともチグハグな心地がする。

 本日の読売社説は「コロナ感染最多 情報を公開して拡大を防げ」、毎日社説は「東京で最多感染者 分析と情報公開が足りぬ」と、いずれも情報公開が不十分だと批判している。人々には、政府・自治体のウイルス拡散防止対策体制がまるで見えない。ねじを巻いてもらいたい。