週刊RO通信

民度を見るための「秤」

NO.1362

 「人を見たらウイルスと思え」みたいな気風が蔓延しないようにしたい。なぜ、人は、人を差別したり、いじめたりするのか。差別されるとか、いじめられる人が、差別する人やいじめる人に対して、何か不都合を働いたのかというと、そうではない。差別され、いじめられる人にはその原因がない。差別やいじめは、それをおこなう人に原因があると考えねばならない。

 思いつくのは、差別やいじめに精出す! 人は、それ以外に精出す何かを持ち合わせてないのであろう。本来、人が困っているのを見ると愉快ではない。一方、人がいかにも愉快そうにしているのを見ても愉快でないことが少なくない。前者の場合は、いささかでも同情が沸くだろう。後者の場合は奇妙にも、愉快に共感できなくて、ジェラシーが沸くほうが多い。

 どうやら、人間は自分自身に対する偏愛性が強いので、愉快な人と自身の境遇を比較考量して、愉快な人の愉快に自身が及ばないと判断する結果、羨望が沸いて、それだけならいいのだが、ジェラシーに点火してしまう。これが無意識的瞬時におこなわれる。――なにごとによらず、自分が他者と比較して劣位にあることを淡々と受け入れるのは容易ではない。

 これが劣等感である。人は生まれてから自意識が芽生えると、つねに他者との相対的な環境に置かれる。自己愛が強いにもかかわらず、ひたすら自身に注目してわが境涯を楽しむ心地には到達しがたい。それもそのはず、人は社会生活なくして生きられないから、人里離れて隠遁しないかぎり、自身が置かれた環境からの刺激を避けられない。

 劣等感が昂進すると、極論すれば2つの落とし穴へ向かう。おれはダメな奴だとして陰々滅々のアリジゴクへ没入するか。もう1つは、自分よりも非力で抵抗力の弱そうな人に向けて気晴らしを求めようとする。後者の隠微にして陰険な気晴らしが成功すると、人が困惑しているのを見て嗜虐的満足感が味わえる次第である。劣等感からサディズムへの道は意外に近い。

 J・ロック(1632~1704)が『統治二論』(1690)を著したのは330年前である。――人間は自然状態においては、各人が完全に自由であり、平等である。まだ権力がないから、各人の権力と支配力は相互的であって、誰も他人以上に持っていない。自然状態は、各人が自由な状態であったが、それは放縦の状態ではない。――

 確かに、人々が社会を作るということは、お互いが納得できる社会的秩序を形成していくことである。そこでの約束事は、――人間はすべて平等で独立しているから、他人の生命・健康・自由・所有物などを侵害するべきではない。――ここで大事なことは、お互い平等なのだから、侵害するべきではない対象の核心は、人格を持った「人」である。

 誰かが、Aさんの指輪を盗んだ。指輪が高価か廉価かということだけで解釈できるのであれば、まあ、たいしたことはない。その指輪は、最愛の母親の形見であった。母親は亡くなったが、Aさんはまさに指輪が母親であるかのごとく大切にしており、日々の生活の心棒である。この場合、安物の指輪であったにせよ、盗まれてAさんの心が傷つけられる。つまり、物としての指輪の盗難以上の問題がある、人格が侵害されたのである。

 いじめられた子どもに「闘え」というのは安直である。闘えるのであれば周囲が言わなくても闘ったであろう。なぜ闘えなかったのか? 家のおカネを持ってこいといわれて持ち出した。それ以上にいじめられた子どもの人格が破壊されているがために、闘おうという意志が立ち上がらない。差別も然りだ。人格とは「人間の尊厳」である。人としての尊厳が侵害されている。

 差別、いじめ、パワハラ、ヘイトクライムなどは、すべて犯罪である。わが国においては、これらは一丁前の犯罪だという意識が薄い。言葉よりもモノ・金銭的価値や肉体的被害のほうに関心が強いからだ。しかし、考えてみてほしい。人間から尊厳を取り除いたら人間ではなくなるではないか。

 人格に対する攻撃は、あらゆる犯罪のなかで最も非人間的かつ悪質な犯罪である。仮に知性が溢れており、社会的地位・名声があるとしても、それが他者の人格を否定する資格になるわけではない。「人間の尊厳」に対する優劣関係は一切ない。「人間の尊厳」に対する意識こそが「民度」の秤である。