週刊RO通信

秩序はあるが元気がない?

NO.1354

 「日本人は、どうもわからん。ひたすら雑多に混雑・混沌している——ただし、何か知らんがバイタリティがある」。こんな感じがしていたのは1960年代から70年代である。21世紀の日本は元気がない、と観測しているところへコロナ騒動が起きた。少し、思い出話をいたします。

 わたしは島根県に生まれて18歳まで育ててもらい、兵庫県の尼崎市で就職したのが1963年。どでかい工場に1万人以上が働く。出勤時に会社正門前は人の波がどどっと押し寄せてくる。機械工場や板金工場は恐るべき轟音で、初めて足を踏み入れたとき、「生きて帰られるか」と思った。

 作業研究チームでワークサンプリングを命じられ、働く人を観察して用紙に記入する。真夏15:00の板金工場。冷房などないから、上半身裸の筋骨隆々の方々が、塩をなめ、2升も入るヤカンから冷やした麦茶を飲む、のどを勢いよく流れていく音が聞こえる。労働現場は感動級の迫力があった。

 終日、鉄板を大ハンマーでどつくような作業だから、筋骨隆々もさすがに疲労の陰がある。「やや仕事のペース低下」とかなんとか記入して、気づけば背後から別の筋骨隆々がわが手元を覗いている。「作業研究なんかやっている奴は世の中が変わればどうなるか、わかっとるのか!」というような敵意を込めた目であった。背筋を冷や汗が流れた。

 そんなトンマの新米が、奇妙な縁で筋骨隆々諸氏と仲良くなり、組合役員になり、現場を歩いていると「おい、御用組合!」と声を掛けられる。「なんですか、御用組合員さん」と返事ができる程度のしたたかさを備えたころ、流れ流れて東京の本部役員になったのが74年夏であった。

 75年の東京都知事選に挑戦した秋山祐徳太子氏(1935~2020)を取材し、仲良くなった。氏は、武蔵野美術大学彫刻家をトップで卒業、ブリキを使った彫刻家として、漫画も描けば演劇もやる、知る人ぞ知るアーチストであった。彫刻家として独立する前10年ほど組合活動に関わった体験も持つ。

 この選挙は、美濃部亮吉(当 269万票)・石原慎太郎(次 234万票)・松下正寿(27万票)がビッグ3、その他13人が泡沫候補である。4位が常連の赤尾敏(12,037票)、秋山祐徳太子3,101票で堂々たる5位につけた。供託金は30万円、松下以下は供託金没収である。

 氏は新宿ゴールデン街が選挙地盤! である。氏を取材して書いた記事のタイトルは「新宿ひとりぼっちの反乱」、氏の選挙コピーは「(自分は)保革の谷間に咲く白百合」、「爆笑の都市」を作るという公約であった。ゴールデン街は5位の「快挙」に沸いた。選挙ポスター1万2千枚、氏はひとり電車で移動し演説してポスターを貼る。2千枚貼ったら選挙日程が終わった。

 立会演説会で人気を博したのはビッグスリーではなかった。13人の泡沫候補、聖徳太子をもじった祐徳太子の演説は大人気を博した。共感した戦前からの右翼赤尾氏がノンセクト・ラジカルの祐徳太子に握手を求めてきた。氏の「爆笑の都市」理念は、東京砂漠を都民1人ひとりが屈託なく、共感・共有して生きる都市に変えて行こうという哲学的・芸術的提案であった。

 氏の穴倉とでもいうべきゴールデン街のバー「あり」で、わたしもいつの間にか常連になった。6人しか座れないカウンターは、演劇家、作家、大学教授など――怪しい奴ら――の溜まり場で、南高梅2つ500円をつまみに上等な! Sオールドをロックでいただく。周辺のバーでは日々しばしば大立ち回りがあった。ドスの利いた紳士の多い店もあった。

 恰好つける輩は好かれない。気に入らない客はぼられるのが普通。店はおんぼろだが、熱い心の飲み屋街で、デモで警官に追跡された学生が逃げてくると匿うような独特の気風があった。『三文オペラ』か『どん底』か、『天井桟敷』か、心を裸にして付き合うことを身分証明とするような、ごたごた雑然とした中に、お互いが一本の糸を探っているような味わいがあった。煎じ詰めれば、1人の大権力者よりも数多の泡沫を愛する気風があった。

 この街が掲載されているカラフルな雑誌を小脇にヤングレディが出没する時期が来て、地上げもあって、周辺の遊歩道が整備されたが、街は内面の活力を失った。この4月3日、秋山祐徳太子氏もあちらへ行かれた。マスク・ファッションを眺めつつ、人生を芸術し続けた氏の雄姿を思い出した。