週刊RO通信

官僚制とデモクラシーの関係

No.1204

夏目漱石さん(1867~1916)の『吾輩は猫である』(1906)をぱらぱらめくっていると、『猫』がいつまでも愛読される理由がわかる。

猫は、車屋のトランプ、いや、黒のような乱暴猫とは同盟を組まない賢猫である。御馳走を食うよりも寝ていたほうが気楽だとするエピキュリアンである。下司の快楽主義ではない。真の快楽とは、放埓な欲望から解放されたアタラクシアにありという真のエピキュリアンの境地にある哲猫である。

猫が居候する家主の苦沙弥先生には、3人の令嬢がある。3歳の末娘は「坊ば」と呼ばれる。自分用の箸茶碗が気に入らず、姉の大きい箸茶碗を使って散々な体である。無能無才の小人ほどのさばりたがる性質は、これである。

――使いこなせない者をむやみに使おうとするのだから、勢い暴威を逞しくせざるをえない。吾輩は謹んで——天下の勢力家に忠告する。公らの他を扱う事、「坊ば」の茶碗と箸を扱うがごとくんば(よろしくない)云々。――

さて、官僚制(bureaucracy)というもの、周知のように組織における位階・階層の構造である。それは、上意下達であり、さまざまな規則による合理的関係があり、仕事は専門化・分化されて各人が分担する。

もし、下が上の指示・命令に従わなければ、いかに組織があっても官僚制は成り立たない。上意下達が成立する前提は、上は必ず下より優れており、その意思決定はベストではなくてもベターであるというわけだ。

上の権威が下に認められていなければならない。もし、下が上に人事を握られているからというような理由で打算的に上に従うような事態が定着すると、大概の組織で不祥事が発生する。

なんとなれば、人事圧力をちらつかせるような上とは、下に対する権威がなく、信頼感もまたない。仕事ができるから出世するのではなく、出世する努力を一所懸命にやった結果として出世する人が少なくないからである。

しばしば官僚制は、規則万能主義で、繁文縟礼で、融通が利かないと批判される。しかしながら、大組織ともなれば、関係者に規則がきちっと見えなければてんやわんやの元になる。

誰が考えても、緊急止むを得ず、しかるべく超法規的扱いをおこなった。それが当意即妙であると認められるような事態には拍手が湧く。上下一体の誠心誠意が実った。これ、官僚制が芸術的段階に到達したといえる。

仕事の心がけとして、① おカネがもらえればよい=Labor、② 能力を発揮したい=Work、③ 仕事を通して社会と連帯する=Actionと置く。Actionが感じられるならば最高であろう。

公務員の仕事や、儲け仕事であっても顧客の嬉しい表情が見られるサービス業などは、とりわけActionの意義を理解しやすい。官僚制組織の駒の1人であっても、誰のため、なんのために働くのかわかりやすい。

一方、儲かればいいのよという気風が支配する会社や、仕事の対象をきちんと意識せずにする役所仕事などは、仕事の単調・連続・繰り返しによって、Laborの足かせから脱出しにくい。仕事に誇りが持てないからだ。

官僚制下であっても、1人ひとりが、大きいのや小さいのや、常に悩み、意思決定をしつつ働いている。なにを以てその基準とするか? ひたすら上意下達で働くならば、まあ、悩みは少ないかもしれないが——

すべては、上の、組織の責任であって、自分は脳みそを必要としないマシンである。表面的には、自組織に対する絶対的忠誠であるが、自分の判断が一切ないのだから、実は無責任である。その壮大な総和が戦前の日本だった。

わが国の官尊民卑の気風は、封建社会から牢固として確立した。明治維新以後、藩閥政治に始まり、側近政治・派閥政治・待合政治が続き、立憲政治とは看板で、法治主義ならぬ人治主義の政治が続いた。

敗戦後はデモクラシーに変わったが、政官界には旧態依然の体質がしたたかに生き残った。主権在民といいつつ、主人公たちの多くはアパシー(政治的無関心)である。これまた、封建性のお上敬遠主義の名残である。

前文科次官の前川氏が、「われわれは志をもって国家公務員になったのに、一部権力者の下僕になることを強いられるのは耐えられない」と語った。国民諸兄は、この言葉をこそ全面的に受け止めて推進せねばならない。